いまでは気鋭の教育ジャーナリストとして知られる、おおたとしまさ氏が、プライベートでは新米パパであり、仕事では駆け出しのフリーライターだった約15年前にAll Aboutで綴っていた子育てエッセイ連載「パパはチビのヒーローだ!」が、このたび『人生で大切なことは、ほぼほぼ子どもが教えてくれた。』(集英社文庫)という文庫になった。
刊行を記念して、文庫に収録されている約60本のエッセイのうち11本を厳選して連載する。All Aboutのかつての人気連載が15年ぶりの復活だ。
教育ジャーナリストが自戒の念を込めておくる現役パパへのメッセージ
【第7回】子どもはみんな学びの天才!
生まれてきてからまだ1〜2年しか経っていない子どもが、言葉を話すようになって、自分の意思を伝えて、世の中とかかわりをもつって、考えてみたらものすごいことじゃないですか? 大人が教えてできるようになるわけではありません。たった1〜2年で、どれだけ膨大な情報量を学んでいるんでしょうか。見るもの、聞くもの、触るもの、嗅ぐもの、舐めるもの、すべてが学びです。子どもには、生まれながらにして、自分の頭と体を鍛えるために必要なプログラムがインストールされているといわれています。大人から見ると意味不明な遊びやいたずらは、すべて自分の頭と体を鍛えるためのプログラムだということです。
ある発達行動学の先生は、「赤ちゃんは自分ですべきことをするだけで忙しい。だから、大人があれをしろ、これをしろと言うようなことをするひまなんてない。逆に、赤ちゃんが何かをしたいと思っているときに、それにちゃんと付き合ってあげることのほうが大切である」と言っていました。
大人から見ると無意味ないたずらやおふざけをとおして、子どもは自分の脳を鍛えています。たとえるならば、脳の中にかゆいところがあって、そこを刺激するためにわざと泥んこ遊びをしたり、高いところから飛び降りたりするのです。それらの刺激が脳に伝わり、脳の発育を促すというのです。ですから、危険なことは別として、むやみにいたずらやおふざけを抑制しないほうがいいでしょう。やんちゃも、年とともに落ち着くのだそうです。
つまり、子どもはみんな、学びの天才です。賢い子に育てるには、運動神経を良くするには、コミュニケーション能力を高くするには……。大人が先回りしてあれこれプログラムを用意するよりも、目の前の子どもがいま、何に興味を示して目を輝かせているのかをよく観察し、それを後押ししてあげることがもっとも効率が良い教育だということです。
たとえば、私が新米パパ時代、こんなことがありました……。以下、約15年前の連載に掲載されていたエピソードです。
耐えがたい誘惑(チビ5歳・ヒメ2歳、15年前当時)
雨上がりの通園路。
何度ダメと言っても、チビはゼッタイに水たまりを探して、選んでその中を歩く。
長靴ならいいけれど、普通の運動靴で水たまりに入っていけば幼稚園に着くころには中までグショグショ。
毎度のように怒られても学習しないチビを見ていたら、ふと思い出した。
そういえば、パパも小さなころは必ず水たまりの中を歩いていたっけ。
「水たまりを踏みたいのを我慢して歩けるなんて、大人ってすごいなぁ」と、子ども心に思った記憶がある。
大人は子どもを見て、「なんであえて水たまりを歩くんだろう?」って首をかしげるけど、逆に子どもにとっては「水たまりがあるのになんで避けて通れるんだろう?」と大人の理性のほうが理解不可能なんだよね。
いつも、「コラ! 水たまりの中を歩くんじゃない!」って怒鳴っているパパもママも、思い出してみたらそんな記憶ありませんか?
少なくとも子どものころの僕にとって、水たまりに入るという行為は、どうにも抑えられない衝動だった。
「ダメ! 靴が汚れるでしょ!」というママの声が耳には届いても、体までは制御できない。
水たまりはまるで僕を吸い込むブラックホールだった。
子どもの発達についての本をいろいろ読んでいると「臨界期」という言葉を目にする。
子どもが成長するうえで、いろいろな能力を徐々に身につけていくわけだけれど、「この能力を身につけるにはいまの時期がいちばんいい」とか、「あの能力はもう少ししないと身につかない」なんていう、そういうベストタイミングのことらしい。
たとえば、子どもが手の触感を発達させているときには、ざらざらした物やぬめぬめした物をやたらと触る。泥んこ遊びもその訓練のひとつだと思う。
小さな子どもが部屋一面におもちゃをばらまいて、お片づけもせずに無秩序に遊び続けるのは、そうやって、自分と物との距離感をつかむ練習をしているからだという。
そこで親が無理やり片づけてしまうと、空間認知能力を養うべき臨界期を逃してしまうかもしれないというのだ。
そう考えると、水たまりも合点がいく。
水たまりができるような場所は道路の中でもくぼんでいたりして、歩きにくい。
あえてそういうところを通ることでバランス感覚を養っているのかもしれない。
もしくは、水たまりに飛び乗ったときにビジャッ!と跳ねる水の感覚を覚えているのかもしれない。
臨界期を過ぎれば自然にそういう行動はしなくなるという。
しつけのために何度も「ダメ!」と言いながらイライラしてもしょうがなくて、臨界期が過ぎるのを待っていればいいだけの話らしい。
子どもにとって抗いがたき衝動っていうのはどれも、それを実行することに何らかの意味があるのかもしれない。
もしかしたら、それをさせないと、臨界期を過ぎて必要な能力が得られないだけでなく、衝動だけがいつまでも満たされず、大人になっても心の奥底に残り、忘れたころに表出して、異常な偏愛行動や犯罪の引き金になることだってあるかもしれない。おー、怖っ!って、脅かしすぎたかな?
とはいっても、せっかく買ってあげたばかりの靴をビショビショにされたり、泥んこ遊びをしているうちに自分自身が泥ダンゴ状態になっているチビを見て、「ったく! 何度言ったらわかるの!(怒)」とキレてしまうのも、至極当然なリアクション。
そこにヒーローを気取るパパが登場して「あのね、子どもの発達には、臨界期っていうのがあってね……」なんてにわか知識をぶらさげてチビをかばおうものなら、「あっち行ってて!」とばかりに蹴りをくらうことになるのも自然の理(ことわり)。
チビの臨界期とママのストレスの狭間でベストな立ち位置を探さなければならない僕は、常に綱渡りのようなバランス感覚を要求されている。
そして、昨日も今日も僕は綱から落っこちて、連続落下記録を更新中だ。
臨界期って言葉は最近あまり聞かなくなりましたね。「もう手遅れ」みたいな文脈に利用されるといけないからでしょうね。
ちなみにモンテッソーリ教育では、似た意味で、「敏感期」という言葉が使われます。子どもは自分のすべきトレーニングを本能的に知っていて、それは、それぞれの敏感期に応じた遊びという形で表れるということです。
また、このエピソードに限らずですが、私がママよりも客観的なスタンスを保てているのは、やっぱり実際の子どもとの距離感の違いなんでしょうね。私もかなり子どもにべったりのパパだったと思いますが、それでもママのほうが圧倒的に距離が近かったということです。
だからといって私がもっと子どもと近い距離にいるべきだったとは思っていなくて、性別は関係ないと思いますが、せっかく親が二人いるのなら、あえてちょっと距離感をずらすくらいのほうが、多角的に子どもを見る視点が得られていいのではないかと思います。それぞれの距離感にそれぞれの意味があると思います。
教育ジャーナリスト。「こどもが“パパ〜!”っていつでも抱きついてくれる期間なんてほんの数年。いま、こどもと一緒にいられなかったら一生後悔する」と株式会社リクルートを脱サラ。独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を務め、現在は、子育て、教育、受験、進学、家族のパートナーシップなどについて、取材・執筆・講演活動を行う。『勇者たちの中学受験』『ルポ名門校』『不登校でも学べる』など著書は約80冊。