かつて勉強は社会階層上昇(下克上)のいちばん確実な手段だった
貧しい社会を立て直そうとする国ほど、教育(女子教育も)に力を入れる。それは、国家の教育レベルの底上げが労働力の質を高め、技術を産み、国力を上げる「生産のエンジン」になるのを嫌というほど痛感しているからだ。
豊かな国へ渡った貧しい移民は、第一世代は必死に働いて教育費を稼ぎ、第二世代以降は厳しく躾けられ、勉強させられ、「一族で初めて大学へ行く」。そして医者や弁護士など、社会的尊敬と高い収入を手にすることのできる職業に就く。彼らは、それを一族の成功や繁栄だと考え、人生の幸せだとして噛み締める。
日本もそうだった。長男ではないゆえに農家を継げなかった男たちは、僧になったり雇われの侍になったり、都市へ出て商いをしたりしてメシを食った。その際に学があるということは大きなプラスとなり、学ぶのが楽しいからとかいう知的で高尚な目的以前に「食える仕事に就くために学ぶ」というシステムが広がった。戦後も、貧しい農村から集団就職で上京した次男や三男たちがサラリーマンとなり、日本の高度経済成長を支えた。その延長線上に組織における「出世」があり、学歴はとてもわかりやすくその人材のクオリティを示す指標とされた。
知識偏重とどれだけ揶揄されようとも、勉強は社会的階層を上昇する、もっとも低コストかつ「コネがなくても正当な努力と引き換えに選抜を通過し、認められる」確実な手段だったのだ。だから、その恩恵を受けて社会で生き残ってきたと自負する詰め込み受験世代の苦労人勝者たちには、彼らなりに論じる「学歴社会ならではのフェアネス(公正さ)」というものが存在するのである。
それが行き過ぎたとき、時代は人脈や環境、経験などの文化資本、つまり「お勉強だけでは手に入らない」部分を評価するという逆の極へ振れる。経験主義は、まさに先ほどのお花畑との批判が示すように、豊かな時代、豊かな社会と豊かな層ならではの価値観であると言えるだろう。
AO入試や自己推薦、「経験主義」受験が日本の私大で主流になるまで
筆者は25年ほど前に慶應義塾大学総合政策学部というところを卒業した。それまでのザ・伝統かつ正統の慶應三田キャンパスから遠く離れた1990年新設の湘南藤沢キャンパスは略して「SFC」と呼ばれ、いまではその名称もそれなりに通用するようだが、筆者が一般入試で入学した年は創立4年目。ようやく1年生から4年生まで学生が揃い、世間からは海のものとも山のものともつかぬぞんざいな扱いを受けていた。
東大生などには「なんか自分達のことSFCって呼ぶんだってね~」と笑い含みの言葉をかけられ、医学部生などには「試験じゃなくて、一芸入試で入れるんでしょ? そういう人たちって入学してから大学の勉強についていけるの?」と深刻に哀れみの混じった問いを投げかけられた。
いや、彼らの常識からしたらもっともだ。ホント、あの頃(1990年代)日本のトップレベルでゴリゴリ勉強していた彼らのような人たちにとっては、AO(アドミッションズオフィス)入試とかカッコいい名前で呼んでみたところでしょせん「一芸入試」。何か一発芸でもやってウケれば入れるのかな的なイメージで、マジで意味わかんなかっただろうと思う。
実際、当時はAO入試の合格枠はまだまだ小さくて特殊であったため、学内でもAO合格者は「あの子、AOなんだって」と目立っていた。やはりあの90年代の日本で「自己」を「推薦」できる人材というのは、たいていアクが強い。「あの子さー、将来は日本社会と世界をもっと良い場所にする会社を作って女社長になりたいんです、って人生プランを教授たちに滔々と説明して入ったらしいよ。夢語って大学合格するってすごいよねー?(笑)」と陰口を叩かれているようなAO合格者もいた。今ではたくさん見かける「社会起業家」なんて言葉が生まれる前の話だ。
だが「やっていけるの?」「辞めちゃうんじゃないの?」と周囲からの意地悪な疑念がついて回ったAO合格者たちは、むしろ普通の学生より出席も成績も良くて、学業でも就職でも優れたパフォーマンスを残したのだ。夢を語って合格したあの子は、本当に起業して女性社長になった。
それとは対照的に、受験で燃え尽きた一般入試合格者たちの方が中だるみし、社会通念通りに酒だ、麻雀だ、パチンコだ、男女問題だ、アルバイトだ、でまともに大学へ来なくなり、人生に迷い、ポロポロと留年したり中退していったりした。
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