ワリエワ選手のドーピング問題、検出された禁止薬物は?
現在開催されている北京冬季五輪。フィギュアスケート団体で金メダル獲得に貢献したROCのカミラ・ワリエワ選手がドーピング検査で禁止薬物の陽性反応を示していたと報じられ、問題になっています。
今回疑惑の対象となっている薬物は「トリメタジジン」だそうですが、いったいどのような薬で、なぜスポーツ選手が使用してはいけないのか。脳科学・薬理学を専門とし、大学薬学部教授として教鞭をとる研究者の筆者が詳しく解説します。
トリメタジジンとは……薬の効果・過去のドーピング事例
トリメタジジンは、1960年代にフランスのセルヴィエ社で合成され、心臓の病気、特に狭心症などに有用であることが示された薬です。
日本では1968年に発売され、「虚血性心疾患治療薬」に分類されていますが、現在は、病院で医師の処方箋が発行されないと使うことができない医療用医薬品としてバスタレルF錠という1製品があるのみで、実際に使用されることはまれです。このため、ほとんどの読者の方が知らなかったでしょうし、医師や薬剤師でも、実は詳しく理解していない方が多いでしょう。
一方でドーピングの世界では、トリメタジジンは近年かなり注目されていた薬です。2012年のロンドン五輪の水泳で金メダルを獲得し国民的英雄となった中国の孫楊選手が、2014年の中国国内大会でのドーピング検査でクロと判定されました。そのとき検出されたのが、まさに「トリメタジジン」でした。その後、孫選手はドーピング検査を妨害したとも伝えられ、2020年2月から4年超の資格停止処分が科され、東京五輪には出場できなくなりました。
また、トリメタジジンは、2018年平昌冬季五輪に参加したロシアの女子ボブスレーのナジェジダ・セルゲエワ選手からも検出され、失格の原因になりました。2019年にはロシアのボート代表であるセルゲイ・フェドロフツェフ選手(アテネ五輪の男子クオドルプルスカルで金メダル獲得)からも検出され、4年間の出場停止処分が下されました。
スピードと持久力に有利? トリメタジジンがドーピングに利用される理由
トリメタジジンがどうやって効くのかは不明な部分が多いですが、脂肪酸の分解を抑える作用があることはよく知られています。
私たちの体を構成している細胞は、酸素がある状態で、糖質(グルコース)と脂肪(遊離脂肪酸)を燃焼(酸化)することで、細胞が活動するのに必要なエネルギーを生み出しますが、脂肪酸を使うよりも、グルコースを使った方が少ない酸素消費量で同じエネルギーを得ることができます。トリメタジジンで脂肪酸代謝が抑えられた時には、結果的にグルコースを使った経路の方が活発に動いてグルコースの利用率が高まり、少ない酸素消費でエネルギーを得られることになります。
つまり、トリメタジジンは、酸素が少なくなったり、体に血液が十分回らなくなった時でも、グルコースを利用したエネルギー産生を優先的に引き起こすことで、細胞のエネルギー低下を防ぎ、細胞機能を維持することができると考えられるのです。とりわけ、運動時に活発に動き、エネルギー不足となりがちな心臓での効果は大きいでしょう。そう期待されて、トリメタジジンがドーピングに利用された可能性が高いでしょう。特にスピードと持久力が要求される競技では有利に働くに違いありません。
薬は本来の目的で正しく活用を! 悪用は薬開発者への冒涜行為
上記のような前例があり、すでに禁止薬物として注目されていたにも関わらず、今回の北京五輪でも同じ薬物が使用されたとすれば、「知らなかった」では済まされません。意図的使用と疑われても仕方ないでしょう。
ただし、今回対象となった選手本人は未成年であり、心臓病を患い治療を受けていたわけでもなさそうです。となると、本人が知らぬ間に、周囲の誰かによって飲まされていた可能性もあります。ちなみに、ロシアでは、トリメタジジンを含んだ製品が薬局店頭で売っており、誰でも買えるそうです。
薬は本来、病気の人を助けるために用意されたもの。それを、個人的な利益のために悪用することは、薬の開発に取り組んだ先人たちを冒涜する行為に他ならないと、私は創薬研究者の一人として声を大にして言いたいです。
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