「いざ鎌倉」の思いで震災ボランティアへ。あれから10年、復興支援の終わりとは?

あの日――交通網がストップした東京では、帰宅難民となった人たちが民族大移動さながらに徒歩で家路に向かっていました。当時の私はこれほどの大災害は想像できていませんでしたが、ただならぬ事態に「いざ鎌倉」の気持ちで被災地へ向かう決心しました。

日本観測史上最大の地震

あの日――交通網がストップした2011年3月11日の東京では、帰宅難民となった人たちが民族大移動さながらに徒歩で家路に向かっていました。そんななか、東北の沿岸では早くも「200名ほどの遺体を発見」などという情報も報じられていましたが、「それはさすがに」と、私は正直信じていませんでした。

津波に破壊された市街地。時計の針はあの時のまま(2011年4月、宮城県)

その夜、新潟に投宿していた友人とやっと電話がつながり、「1000人くらい亡くなる人が出るかもしれないな」と話したのを記憶しています。数時間後、その友人は、立て続けに日本を襲った「栄村大地震(長野県北部地震)」(2011年3月12日)に見舞われたのです。それでもまだ、当時の私はこれほどの大災害は想像できていませんでしたが、ただならぬ事態に「いざ鎌倉」の気持ちで被災地へ向かう決心をしました。

ボランティアたちのテント。水も食料も全て持参だった(2011年4月、宮城県)

あらゆる交通手段が寸断されてガソリンもないなか、被災地に入るのは容易なことではありません。必要な荷物や水などを持った上で現地にたどり着ける可能性が一番高そうに思えたのが、当時、臨時で運行された羽田ー福島便。福島空港からは仙台行きの臨時バスが少々出ているようでした。結局、私が被災地入りできたのは約20日後、運良くボランティア団体の主催する支援グループに加わることができました。
 

目の当たりにした被災地の惨状

打ち上げられた漁船。後々多くの報道写真集の表紙を飾り、震災の遺物として残すか取り壊すかが議論となった(2011年4月、宮城県気仙沼市)

自分の目で見る被災地の状況は報道のインパクトとは別物でした。津波直後の命の危機からは脱したものの、避難所で肩を寄せ合う被災者たち。ひっくり返った車、打ち上げられた船、こうした“モノ”を見慣れるのには案外時間はかからないのですが、あの日を境に「被災者」という特別な境遇になってしまった人々と、帰る家がある自分との間に生まれてしまった立場の違いに、多くのボランティアが葛藤し、苦しんだと思います。
 

それでも炊き出し、泥出し、物資仕分け、バザー、入浴支援、後々は仮設住宅での生活支援や産業支援まで、やることは無尽蔵にありました。なかでも泥出しは初期活動の象徴的存在で、精神的負荷、物量ともに最大の作業でした。重油の臭いに腐敗臭の混ざったヘドロは、作業用一輪車に満杯で運べば並みの女性ではバランスを保つことは至難です。ガラスの海と化した現場で負傷し、戦線離脱を余儀なくされたボランティアも少なからずいました。不本意ではありますが、あのヘドロの臭いと被災地の記憶が追憶のなかで重なってしまっています。

見渡す限りの瓦礫(2011年5月、宮城県南三陸町)

住み込みの避難所支援では、本当に暖かい心の触れ合いがありました。被災者に加えて住み込みボランティア、炊き出し、散髪、マッサージ、歯医者などの巡回ボランティア、物資を運びに来る自衛隊、皆ができる事を出し合って、被災者の命を支えていました。海外からもたくさんの物資とメッセージが届きました。

「日本加油!」(がんばれの意、シンガポールより)

「台湾と日本は一心同体である」(台湾より)

お母さん方から、毎食強制超大盛でいただいたごはんの味は今も忘れません。
 

きれいごとばかりではない。でもまたなぜか被災地を目指す

もちろん支援者、被災者ともに美談やサクセスストーリーばかりではありませんでした。
 

被災地の倉庫にうず高く積まれた大量の支援物資を報道等で見た記憶がある方は多いかもしれませんが、あれは市中心部など“都会”の話。三陸の複雑なリアス式海岸に車を走らせれば、行政の支援がなにも届いていない小さな入り江の小さな集落のような所は、震災から数ヶ月を経てもたくさんありました。

営業してます!(2011年5月、宮城県)

さらには支援側の縄張り争い、平成大合併前の旧自治体の軋轢、支援物資の廃棄や奪い合い……、挙げればきりがないかもしれませんが、そこは人間。まして極限の状況下であれば、そのようなトラブルが起きないわけがないでしょう。
 

そんな中で、おもしろいことに、何ヶ月かを経て、被災者から逆に元気をもらう支援者が出てくるようになるのです。
 

夏も近くなり、少しずつ余裕が生まれ始めた被災者の中に御返しの気持ちが芽生えたのだと思います。差し入れや送迎、時には入浴までさせて頂くこともありました。人間関係を大切にする東北の人が風呂あがりのボランティアをそのまま帰すわけもなく、ビールに始まり、自家製の漬物、捕れたての魚が出てくることも。

泥出しでお伺いした小料理店から頂戴した津波をかぶった被災ビール。味は上々(2011年4月)

そしてその人情に魅せられて、再びまた東北を目指す支援者たちが多くいました。そこには明日には遠い関係になるかもしれない者同士に、絆と呼べるかもしれないものが生まれていたのを肌で感じました。
 

復興支援はいつ、どう終わるのか

被災地を見た人はそれを後世に伝えるのが使命、と多くの被災者から言われました。その約束を果たすために、『復興支援ボランティア、もう終わりですか?』(社会批評社)という本にして上梓しました。復興支援はいつか終わらなければいけない、でも、まだまだ終えてはいけない。そんなジレンマに遭遇する日が遠からず来るであろうことを予見して、その思いを本のタイトルに込めました。
 

1トン分の力仕事は震災直後の被災地では大きな助けになりますが、今はそうではありません。クレーンでやるからいいよと言われてしまうことだってあるでしょう。下手をすると押し付けボランティアになってしまいます。

かさ上げ作業用の盛り土がピラミッドのように(2015年11月、宮城県南三陸町)

原発事故の影響でボランティアにとっては後発地帯、しかも特殊な環境が続いた福島県のあるボランティアセンターでは、「できる人が できる時に できる事をやる」というのが標語になっていました。
 

10年を経た今、被災地にこの三条件を満たせるニーズは非常に少なくなってきたと感じます。それ自体は望ましいことなのかもしれません。
 

しかし被災者が一番望まないこと、それは「風化」です。

整備された気仙沼港(2019年7月)。。あの日の夜、津波で漏れ出した重油に引火し、海も燃えた。着実な復興に様々な思いが重なる

そして支援者にとって最後に残るであろう仕事、それが「震災を風化させない」ことではないでしょうか。それを見届けた時、最後の「できる事」がなくなる形で、復興支援が終わることを願いたいと思っています。

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