プロ野球選手史上、インパクトのあるニックネーム“デーブ”の持ち主は?

長い2軍生活からトレードを機に開花した大久保博元

2020年6月19日、待ちに待ったプロ野球ペナントレースが開幕。そして7月10日からは限定的ではありますが球場での観戦が可能に。応援で大きな声を出すことは禁止されるなど、まだまだ制限がある中ではありますが、日常にプロ野球が戻ってきたことを喜ぶ声がSNS上などで多く見られました。

プロ野球選手と言えば、人気の高い選手にはニックネームが付きもの。最近の選手であれば柳田悠岐(ソフトバンク)の「ギータ」や山崎康晃(DeNA)の「ヤマヤス」などが有名ですが、プロ野球史上、最もインパクトのあるニックネームと言えば、元楽天監督である大久保博元の「デーブ」ではないでしょうか?

現役時代の大久保と言えば、愛らしい丸顔でポチャッとした体型が人気の選手でしたが、選手名の略称ではなく、体型を連想させるややキツめのイジリに見えるものでしたが…当の本人は現役引退後に芸名に使うほどお気に入りだった様子。そんなニックネームが生まれた理由、そして意外と知られていない大久保博元の現役時代はどんなエピソードが残っているのでしょうか?
 

デーブ誕生の由来は…アメリカ遠征!?

大久保博元が生まれたのは1967年2月1日。茨城県の大洗町で生まれました。大久保家は母が朝早くから家を出て、夜遅くに帰ってくるという典型的な母子家庭。毎日一生懸命働く母を見て育った大久保少年は小学1年生のころから「プロ野球選手になって大金を稼ぎ、親孝行したい」という夢を持っていたと言います。

手がマメだらけになりながらも、来る日も来る日もバットを振るという日々の努力が実り、大久保は高校進学時、茨城県屈指の強豪校である水戸商業へ進学。この当時から堂々たる体躯を誇った大久保は捕手として起用されましたが、長打力を武器にした大型捕手として主軸を務めるようになります。

高校3年間での最高記録は高校2年生時の夏の県大会準優勝で、甲子園大会をはじめとした全国大会には無縁だった大久保ですが、高校3年間で放った本塁打は52本と長打力抜群のスラッガーとしてプロのスカウトも注目するように。

そして1984年のドラフト会議で大久保は西武ライオンズに1位指名を受けて入団。子供のころからの夢を見事に実現しました。

しかし、入団したチームが西武だったことで結果的に大久保はプロ野球選手としては遠回りすることに。

というのも当時の西武は広岡達郎監督が打ち出した「管理野球」により鍛え上げられた強豪チームで、しかも一軍の正捕手を担っていたのはプロ入り3年目の伊東勤。大久保より4歳年上で正捕手の座を掴んだばかりの若手だっただけにドラフト1位入団とはいえ、大久保は即戦力というよりもじっくりと二軍で鍛え上げるという方針を取られることになりました。

実際、大久保はプロ入り2年目の1986年、アメリカへの野球留学に派遣されます。シーズンを棒に振ることになってもアメリカで鍛え上げて後の戦力にしたいという西武首脳陣の考えが良く分かります。

当時の西武は期待の若手を野球の本場であるアメリカへ留学させることが多く、留学経験者の中には工藤公康、秋山幸二、田辺徳雄など後の西武黄金期を支える選手も多数いるため、大久保への期待も相当高いものだったことが伺えます。

ちなみにこのアメリカへの野球留学を引率したのは和田博美。大久保がアメリカのチームメイトから気軽に呼ばれるようにと「デーブ」という愛称を付けました。大久保の堂々たる体格をイジるというよりもアメリカナイズされたニックネームを付けたというのが「デーブ」大久保の誕生の由来と言えるでしょう。
 

恩師・藤田元司が語る大久保とのエピソード

アメリカへの野球留学を経験した大久保博元は帰国した1987年、フレッシュオールスター戦でMVPを獲得するなどその成果を遺憾なく発揮。この活躍が評価されて一軍に昇格し、3年目にして自己最多の56試合に出場するなど飛躍のシーズンとなりました。

しかし、大久保はここで伸び悩みます。先述したように一軍の正捕手には同年代の伊東勤が君臨し、指名打者の枠にはバークレオ、89年からはデストラーデといった長打が見込める外国人選手が起用されるため、大久保はレギュラーを勝ち取ることができませんでした。

さらに大久保の新人時代に「力士のよう」と非難した広岡監督をはじめ、大久保の大きな体を非難する声も首脳陣内には根強く、なかなか起用されるケースがありませんでした。

抜群の長打力を持ちながら二軍で燻り、腐りかけていた大久保に1992年、転機が訪れます。それは巨人へのトレード。才能を持て余してしまっている大久保を見かねた球団管理部長の根本陸夫が主導で進めたトレードで大久保は中尾孝義との交換で巨人に移籍すると、間もなく大久保は正捕手として起用されることに。

くすぶり続けたうっ憤を晴らすかのように大久保は打ち続け、5月からの途中入団で前半戦終了前に12本塁打をマーク。しかもこの本塁打を打った試合は負けないというジンクスも作り、一気に注目度を増しました。

この大久保のブレイクに一躍買ったのが、当時の巨人監督である藤田元司。西武時代に体型を非難されることが多かった大久保は宿舎で食事をとる際も少なく食べるようにしていたと言いますが、藤田監督は大久保の体型を一切咎めず、むしろ「その体型を維持するなら、たくさん走らないとな」と声をかけていたほど。藤田監督の言葉に感激した大久保はよりプレーに熱が入ったという逸話があります。

ちなみに藤田監督は生前、糸井重里との対談中にこのエピソードに触れ「人の心を傷つける言葉は使っちゃいけないな」とあらためて気づいたと語りました。
 

不運な骨折でプロ野球生活にピリオドが

大久保博元にとっての恩師、藤田元司が退任し、長嶋茂雄が監督に就任した1993年、大久保は開幕戦からスタメン起用。大久保もそれに応えるように開幕から本塁打を量産するなどついにレギュラー定着を予感させましたが、5月後半に死球により左手首を骨折。9月まで戦線を離脱するというアクシデントに見舞われました。

その後も大久保は長打こそ魅力ながら、捕手としての経験不足がアダとなるケースが多くなかなかレギュラー定着ならず、次第に代打要員として起用されるケースが増えていきました。

そしてプロ入り11年目となった1995年、大久保は2年ぶりの開幕スタメンの座に就き、斎藤雅樹の完封勝利をアシストしましたが、4月後半にまたも骨折。今度は大久保の大きな体を支えてきた足首だったために長引いてしまい、14試合のみの出場にとどまってしまいました。

そしてこの故障がもとで大久保は現役引退を決意。28歳という若すぎる引退に当時のプロ野球ファンは衝撃を受けることになりました。
 

コーチ、監督…大久保のセカンドライフはまだまだ続く

いかがでしたか? 28歳という若さで引退した大久保博元ですが、調べて見るとインパクト抜群のエピソードを残していることが分かります。現役引退から13年後の2008年に西武のコーチに就任して日本一に貢献、そして2015年からは楽天の監督を務め、さらには監督退任後に居酒屋を経営するなど、マルチな才能を発揮しました。

再びの球界復帰も噂されるなど未だに球界関係者からの人気の高いデーブ大久保。今後の動向にも注目です!