実は超一流プレーヤーだった関根潤三とは?
4月9日、元ヤクルトスワローズ監督の関根潤三が老衰のため93歳で亡くなったという報道がされました。SNSを見ると監督時代を知るヤクルトファンを中心に追悼のコメントが多く集まり、いかに愛されていたかがわかります。
ですが、関根が最後にユニフォームを着たのは今から31年前の1989年。ましてや現役引退は1965年なので、現役時代の関根を見たという方はかなり少数と言えるでしょう。
監督退任後は解説者としてテレビに出ることが多かった人物だけに、実際に現役当時、どんな成績を残していたか、どんな記録を打ち立てていたかがわからないという人も多いことでしょう。そこで今回は関根潤三の現役時代から監督時代にかけての偉業を紹介しましょう。
偉業その1:二刀流選手としてオールスター出場
大学時代には投手として41勝を挙げた関根潤三。投手でありながら打撃も良かったのですが、1950年に近鉄へ入団すると当初は投手としてプレー。
弱小チームでありながらエース投手として奮闘し、1953年には自身初となるオールスターゲームに出場。そしてプロ入り8年目となる1957年から野手として一本化していき、2年後の59年には自身2度目のオールスターゲームに出場します。
投手と野手、どちらでもスター選手が集結するオールスターゲームに出場するというのは実はこれがプロ野球史上初の快挙。これに続く選手はなかなか現れず、2013年に大谷翔平(日本ハム→エンゼルス)が達成するまで長らく関根一人だけが達成した大偉業でした。
偉業その2:投手で50勝&野手で通算1000本安打の記録達成
先述の通り、もともと投手として近鉄へ入団した関根潤三。しかし、出場機会の限られる投手では関根が本来持っているポテンシャルを開花させることができず、また関根も肩の故障を理由に投手を8年で見切りをつけて打者へと転向します。
いくら弱小チームだからと言っても、先日まで投手をやっていた選手が打者としてレギュラーを取れるほどプロ野球は甘くない……と言いたいところですが、関根はすぐにレギュラーに定着。持ち前のバットコントロールで安打を量産して、いつしか打線の中軸を担うクリーンナップを打つことになります。
50勝以上(65勝)を挙げた投手が野手としてもプレーして通算1000本安打を達成(1137本)するなんていうのはNPBでは前代未聞の快挙。
2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成するなど、関根のマルチぶりが際立ちました。
偉業その3:若き日の衣笠祥雄を徹底指導!
現役を引退した直後は解説者として3年間活動した関根潤三。ですが、1970年に近鉄時代のチームメイトだった根本陸夫が一軍の打撃コーチとして関根を呼び寄せます。
当時の広島は若手の有望株がたくさんいた時期ですが、中には燻っている選手も。その1人だったのが、後に鉄人と称される衣笠祥雄でした。
すでにレギュラーとして活躍していた衣笠ですが、確実性のない打撃がネックとなっていました。その衣笠に対し関根は徹底的に指導。
朝・昼・夜の練習はもちろん、他の選手がオフとする時間帯でもマンツーマンで指導するなど、その情熱にはすさまじいものがありました。そうした指導が実り、衣笠はチームどころか球界を代表する打者に成長を遂げました。
偉業その4:若手育成で後の強豪チームの礎を作る
監督としての関根潤三の成績は6年間で331勝408敗。優勝はおろか、Aクラスでさえも大洋ホエールズを指揮した1983年の3位だけというイマイチな成績でしたが、一方で選手育成では抜群の成績を残しました。その象徴となったのが1987年から指揮を執ったヤクルトでした。
当時は2年連続で最下位に沈み、Aクラスは6年間も遠ざかるという状態でしたが、関根はベテラン選手よりも若手の起用に舵を振り切りました。
その時の中心選手となったのが当時20代だった池山隆寛、荒井幸雄、内藤尚行。前年まではレギュラーではなかった選手や自身が監督に就任してから獲得した選手を積極的に一軍で起用して、経験を積ませました。
関根監督時代は結果こそ出ませんでしたが、この時に経験を積んだ若手が主力に成長したことで続いて監督に就任した野村克也時代にリーグ優勝4回、日本一3回の強豪チームへと生まれ変わりました。