ONにすら負けない華やかな選手たちが登場
新元号「令和」が5月1日から施行されることになり、ついに平成の時代も残すところあとわずか。昭和は長嶋茂雄や王貞治といった国民的なスーパースターが現れましたが、31年を数えた平成にも王や長嶋に勝るとも劣らない選手たちが現れました。
そこで、平成元年以降にプロ入りし、時代を彩った名打者たちを振り返ってみましょう。
平成史を彩った名打者その1:イチロー(平成4年~平成31年)
平成どころか、プロ野球史上に残る名選手と言っても過言でないのが先日引退を発表したイチロー。平成4年にプロ入りし、3年目の平成6年に登録名を本名の鈴木一朗から「イチロー」に変更すると振り子打法と呼ばれる独特なフォームでヒットを量産して大ブレイク。オリックスに在籍していた平成12年までの9年間で首位打者7度をはじめ、数々のタイトルを獲得しました。
平成13年にはシアトル・マリナーズへ移籍。活躍の舞台をメジャーリーグに移しますが飛ぶ鳥を落とす勢いで、気が付けば平成31年の引退までに積み上げた日米通算安打数はなんと4367本。他にもWBCでの活躍など、その一挙手一投足がすべての野球ファンを魅了し続けました。
平成史を彩った名打者その2:松井秀喜(平成5年~平成24年)
そんなイチローがプロ入りした翌年にデビューしたのが松井秀喜です。高校時代から圧倒的な長打力を背景に注目を集め、平成4年のドラフト会議で4球団の競合の末に巨人入り。昭和の大スター長嶋茂雄監督が提唱した「4番1000日計画」と言われる英才教育を施したことでも話題になりました。
松井は見事に花開き、プロ入り2年目の平成6年には、プロ野球ファンの間で未だに語り継がれる「10.8決戦」で本塁打を放ってチームの優勝に大きく貢献。平成14年に巨人を退団するまでに本塁打王と打点王にそれぞれ3回ずつ輝くなど、球界最強のスラッガーになりました。
平成15年にはニューヨーク・ヤンキースへ移籍。翌16年には日本人メジャーリーガー歴代最多本塁打となる31本を放ち、平成21年には日本人史上初となるワールドシリーズMVPに輝きました。ニックネームの「ゴジラ」は日本だけでなく、アメリカのファンにも浸透していきました。
平成史を彩った名打者その3:新庄剛志(平成2年~平成18年)
イチローや松井と同時期にメジャーリーガーとして海を渡った男と言えば、新庄剛志。改めて通算成績を見ると日米通算打率は.252とごく平凡な成績でしかありませんが、抜群のスター性で「記録よりも記憶に残る選手」でした。
阪神時代の平成11年6月12日の対巨人戦では、一打サヨナラの場面で敬遠策を取られそうになると、新庄は敬遠のボール球に食らい付いてサヨナラヒット。日本ハム時代に出場した平成16年のオールスターゲーム第3戦では、オールスター史上初となる単独でのホームスチールを達成し、見事にMVPを獲得しました。やることなすこと話題に溢れた稀代のスーパースターの行動はいつしか「新庄劇場」と称されました。
平成史を彩った名打者その4:金本知憲(平成4年~平成24年)
そんな新庄と入れ替わるかのように阪神にやってきたのが金本知憲。平成31年間に放った安打数と本塁打数でともに1位という記録に残る大打者です。
そんな金本の記録を支えたのはその丈夫さ。広島に入団8年目の平成11年から阪神に移籍した平成22年までの12年間すべての試合に出場し、13686イニング連続出場、1492試合連続フルイニング出場という2つの世界記録保持を保持しています。
また、金本は勝負強さも大きな魅力。阪神に移籍した平成15年はすぐにクリーンナップに定着し、ここ一番で長打を連発しました。低迷が続き「ダメ虎」と称された阪神を18年ぶりにリーグ優勝させる原動力となり、「アニキ」の愛称で親しまれました。
平成史を彩った名打者その5:坂本勇人(平成19年~)
そんな平成史を彩り、現在でも活躍しているのが坂本勇人。プロ入り2年目の平成20年に弱冠19歳で開幕スタメンの座を勝ち取ると、すぐにショートのレギュラーに定着し、その華麗な守備と安定したバッティングですぐにチームの中心選手になりました。平成19年~21年、そして24年~26年の第二次原辰徳政権下で2度のリーグ3連覇達成に大きく貢献。
そんな坂本が初の打撃3部門タイトルを掴んだのが平成28年。この年は打撃フォームの改造に取り組んだ成果が出て、打率は自己最高となる.344をマークして、ショートを守る選手としてはセ・リーグでは初となる首位打者を獲得しました。その打撃は現在でも進化し続けています。
令和にはどんなスラッガーが生まれるか!?
いかがでしたか? 平成31年間の間には記憶にも記録にも残るスターがたくさん存在したことがよくわかります。5月1日から始まる令和の時代には、どんなスター選手が誕生するのでしょうか?