「思い出」は好きですか?
「思い出」という言葉が個人的には好きではない。思い出にすがりつくより、いつも前に向かって進んでいたいという思いがあるからだ。もちろん、思い出を大事にする人を非難するつもりはまったくないし、それができれば幸せなのかもしれないとも思う。
20年以上前、職場の先輩に恋をして……
チエコさん(47歳)は、今も20年以上前の「恋心」を心の中にひっそりと温めている。逆に言えば、それがネックとなって、新たな恋へ歩み出せずにもいる。
「短大を出て勤めた会社の2年上の先輩だったんです。ずっと憧れていて、入社4年目にようやく彼と同じ部署になった。そこからは天国でした。仕事にも前のめりになって」
彼も、そして上司も彼女を認めてくれ、どんどん大きな仕事に参加させてくれるようになっていった。それと同時に彼への気持ちも大きくなっていく。
「だけど告白なんかできないし、せめて私の気持ちをわかってほしくて、出張に行くと他の人には内緒で彼にだけ別のお土産を買ってきたりしたんですが、彼はわかってくれてなかった。というか、私を"いい仕事仲間"だと思っていたようです」
27歳を目前にしたころだった。彼と彼女と上司と、そしてチームを組んでいたもうひとりで小さな忘年会をすることになった。ときどきそういう飲み会はあったのだが、なぜかそのときは上司が風邪でダウン、もうひとりは突然、親が倒れたということで、ふたりきりの飲み会となった。
「当時はまだ携帯電話もなくて、私は外回りからそのまま飲み会会場に行ったんです。そうしたら彼がひとりでいて。『中止にしようかと思ったけど、4人での飲み会はまた改めてやろう。今日はふたりだけど、いいよな』って。いいに決まってるじゃないですか。そんなチャンス、めったにないんだから」
チエコさんは浮き足立った。今日中に気持ちをわかってもらいたい。自分の恋心をなんとか受け止めてほしいとその時間に賭ける思いだった。
「でも緊張して飲み過ぎて結局、何も言い出せないまま酔っ払っただけ。帰りに彼が送ってくれて自宅前で『明日の朝はちゃんと起きろよ』と、頭を撫でてくれたことだけは覚えてる。あれが唯一、彼とのスキンシップだった……」
彼が結婚すると聞いたのは、その数カ月後だった。相手は学生時代からつきあっていた女性だと知り、彼女はひとりで泣いた。そして彼女はとんでもないことをしてしまうのだ。
「結婚式では、職場でいちばん親しい後輩だから、スピーチというほどのものじゃなくていい、ひとこと頼むよと言われて。同じ部署の8人くらいがひとことずつ話すというものだったんです。みんなけっこう冗談ばかり言って、場も盛り上がっていたんですが、私、結婚した彼の顔を見たら、『あの夜のことを忘れないでください』と言って泣いちゃった」
場は一気にしんとなった。とっさに次にマイクを握った同僚が、「彼女はいつもこうやってドラマティックな冗談を言うタイプなんですよ。勝手に先輩に憧れてたのは私も知ってますが」とフォローしてくれ、誰かが笑い出してくれたのでなんとか場は持ち直した。
それでもいづらくなって退職……
これがきっかけで、彼女は出社できなくなった。先輩も気にしなくていいと言ってくれたが、実際は結婚したばかりの妻は不快に思っていたそうだ。
「そりゃそうですよね。冗談で言ったのなら泣くわけないし。けっこう揉めたらしいです。結局、私はいづらくなって退職。その後は職を転々としました」
10年前、ようやく今の会社に落ち着いた。その後はまじめに働いてきたが、恋愛はできなくなっていた。誰を見ても「先輩以上の人はいない」とあの「頭を撫でてくれた夜」を思い出してしまうのだ。
ずっと同居していた両親も、8年前に父が、2年前に母が逝って、今はひとりきり。このまま老いていくのだろうかと考えると不安でたまらない。だが、彼女の記憶の中では、今も頭を撫でられた夜が燦然と輝いている。
「彼は私をどう思っていたんでしょう、そして今も私のことを覚えていてくれるのかしらとときどき思うんです。彼に会いたい。でも会える立場ではない。風の便りでは、彼はけっこうエライ立場になっているようです。私生活はどうなのか知らないけど」
成就しない恋だから思い出だけが濃くなっているのか、あるいは彼女の未練なのか。それはわかりようがないのだが、煌めいているはずの思い出を語る彼女の顔はあまり楽しそうには見えなかった。