いよいよ始まる100回目の夏!歴代名選手で甲子園を振り返る

今年で100回目を迎える「夏の甲子園大会」こと全国高校野球選手権大会。その歴史を紐解けば数々の名選手が生まれてきました。プロで活躍した選手はもちろん、甲子園で燃え尽きた球児まで、歴代の名選手たちを抜粋して紹介します。

今年は記念すべき100回大会!全国高校野球選手権大会

 

夏の甲子園99回の歴史を振り返る!

8月5日から始まる「夏の甲子園大会」こと全国高校野球選手権大会。毎年、野球ファンから大いに注目される大会ですが、今年は記念すべき100回大会ということでその盛り上がりは例年以上になっています。
 

そんな中で今回は99回の歴史を誇る夏の甲子園のスター選手たちを紹介。歴史を彩った選手たちとはどんな選手だったのでしょうか?
 

夏の甲子園名選手その1:王貞治(早稲田実業・東京)

通算本塁打の世界記録を持つ「世界の王」こと王貞治。打者としての活躍があまりに有名ですが、実は高校時代は投手。1年生の秋からエースになると、ノーワインドアップ投法を覚えたことでコントロールが向上。1957年、2年生の春に迎えたセンバツではエースとして活躍し、チームは優勝。早稲田実業は関東で初となるセンバツ優勝校になりました。
 

返す刀でこの年の夏の甲子園大会にも出場した王は2回戦の寝屋川戦で延長11回を完投してノーヒットノーランを達成。延長に突入してのノーヒットノーランは甲子園大会春夏を合わせても王しか達成していない大記録です。
 

夏の甲子園名選手その2:板東英二(徳島商業・徳島)

タレントとしての活動があまりに有名なためか、「元野球選手」という経歴が意外と忘れられている板東英二。実は高校時代は速球投手として名を馳せていて、3年春に行われた四国地区の春季大会の対高松商業戦は今もなお語り継がれる延長25回を1人で投げ抜くという快投を演じました。
 

そんな板東は夏の甲子園大会でも爆発。1958年の夏の甲子園大会に出場すると、豪速球を武器に奪三振を量産してチームを連戦連勝に導きました。決勝でこそ柳井(山口)に敗れてしまいましたが、6試合で83奪三振を記録。60年以上の月日が流れた今でも大会記録として歴史に名を残しています。
 

夏の甲子園名選手その3:太田幸司(三沢・青森)

甲子園大会には数々のアイドルが誕生しましたが、その走りというべき存在が三沢の太田幸司。アメリカ人を父に持つ太田はハーフ特有の端正な顔立ちで一躍話題になると、太田を一目見ようと若い女性が甲子園球場にやってくるようになりました。
 

そんな太田は実力も折り紙付き。完成度の高い投球からチームを引っ張り、高校3年生だった1969年の夏の甲子園大会ではチームを決勝進出にまで導きました。迎えた決勝戦で対戦した松山商業(愛媛)との試合は引き分け再試合を含む2試合計27イニングを1人で投げ抜くという伝説を生み出しました。
 

夏の甲子園名選手その4:江川卓(作新学院・栃木)

「高校野球史上最強の投手」と今もなお語り継がれるのが江川卓。高めのバックスピンのかかったストレートはプロ顔負けのレベルで、これに切れ味抜群のカーブが加わることで高校生相手では打ち崩すのはほぼ不可能でした。そのため、高校3年間の江川は栃木県予選ノーヒットノーランを9回、完全試合2回という大記録を打ち立てています。
 

そんな江川ですが、当時の作新学院は江川ひとりが際立つワンマンチーム。そのため栃木県大会をなかなか勝ち進むことができず、江川が夏の甲子園の土を踏んだのは高校3年生だった1973年のみ。春のセンバツでは大会最多の奪三振記録を打ち立てるなどの実力を見せていましたが、この大会でも1回戦の柳川商(福岡)で延長15回で23奪三振を奪うというる力投を見せました。
 

夏の甲子園名選手その5:荒木大輔(早稲田実業・東京)

甲子園が生んだ最大のアイドルと今でも呼び声高いのが荒木大輔でしょう。1980年の夏の甲子園大会で1年生ながらエースとして登板した荒木はその甘いマスクで人気を集めましたが、実は予選の段階では三塁手の控えでした。しかし投手陣の故障で投手として起用されるようになるとその才能を開花させていきました。
 

甲子園大会では5試合を投げてなんと4完封という異次元の活躍。決勝で愛好剛率いる横浜(神奈川)と対戦した際はさすがに打ち込まれて敗れましたが、その活躍は語り継がれるようになり、後に大輔ブームと呼ばれる社会現象を巻き起こしました。
 

夏の甲子園名選手その6:KKコンビ(PL学園・大阪)

KK
1985年、夏の甲子園に出場した桑田真澄(左)と清原和博(写真:岡沢克郎/アフロ)

高校野球界でアンタッチャブルレコードとされているのが清原和博の甲子園通算13本塁打と桑田真澄の甲子園通算勝利20勝(現学制)の大記録です。こんなとてつもない記録を打ち立てたエースと4番打者が、同じ学年で同じチームにいるという奇跡。それが80年代前半のPL学園の強さに繋がりました。
 

1年生だった1982年の夏の甲子園大会の準決勝でやまびこ打線を擁する池田を下してから一躍注目されるようになった桑田はテンポのいい投球で勝ち星を量産し、4番の清原は3年間、4番打者の座を譲らずに君臨。ちなみに2人の在学時にPL学園は5期連続で甲子園に出場。2度の優勝、2度の準優勝という輝かしい成績を残しています。
 

夏の甲子園名選手その7:松井秀喜(星稜・石川)

時として球児たちはニックネームで呼ばれて親しまれるようになりますが、「ゴジラ」と称されたのは松井秀喜。圧倒的なパワーを背景にした打球はプロ顔負けの飛距離を誇った超高校級スラッガー。甲子園球場に長らく設置されていたラッキーゾーンが撤去されて最初の大会となった1992年のセンバツでも松井は本塁打を放つなど、その実力が高く評価されていました。
 

しかし、松井が甲子園の舞台で名を残すことになったのは明徳義塾との2回戦で受けた5打席連続の四球。バットを1度も振ることなく、この年の夏はアッサリと幕を閉じました。皮肉にもこの5打席連続があったからこそ、松井は伝説の打者になったとも言えるでしょう。
 

夏の甲子園名選手その8:松坂大輔(横浜・神奈川)

何年かに一度、甲子園の舞台で活躍する選手は「○○の怪物」と呼ばれますが、それが真の怪物となったのは松坂大輔でしょう。なんせ3年生の春だった1998年のセンバツ大会では完成度の高い投球で他の学校を圧倒して優勝。夏は史上5校目となる春夏連覇の原動力として期待されていました。
 

そして迎えた夏の甲子園大会はまさに「松坂のための大会」に。延長17回の死闘となったPL学園(大阪)戦、ギリギリの勝負をモノにした明徳義塾(高知)戦、そして59年ぶりとなる決勝でのノーヒットノーランを達成した京都成章(京都)戦とどれをとっても密度の濃い試合ばかりで、ファンに伝説を残しました。
 

夏の甲子園名選手その9:斎藤佑樹(早稲田実業・東京)

侍ジャパンとしても活躍していた斎藤佑樹選手(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)


荒木大輔の登場から20年以上が経った2006年、新たな甲子園のアイドルとなったのはハンカチ王子と呼ばれた斎藤佑樹でした。前評判は決して高くはありませんでしたが、2回戦で対戦した大阪桐蔭戦(大阪)ではプロ注目のスラッガーとして話題になっていた中田翔を子ども扱いして、4打席で3奪三振を奪うと一躍注目されるようになりました。
 

その後も斎藤の快進撃は続き、なんと荒木大輔の時代から遠ざかっていた決勝戦で早稲田実業は田中将大擁すると対戦。戦前での下馬評は圧倒的に早稲田実業不利の中で迎えた試合ですが、斎藤は持ち前のスタミナで乗り切り、なんと延長15回を投げ抜いて引き分けに。翌日の再試合に持ち込みました。
 

そしてこの試合で斎藤はまたも9回を1人で投げ抜いて見事にチームを夏の舞台で初の優勝に導きました。ちなみにこの試合中に斎藤がマウンド上でハンカチを使ってしきりに汗を拭く様子が注目され、ハンカチ王子と呼ばれるようになりました。
 

夏の甲子園名選手その10:中村奨成(広陵・広島)

最後は記憶に新しい昨年の大会から。甲子園前はあくまで地元期待のスラッガーというレベルでしたが、いざ夏の甲子園大会に出場するとあれよあれよと勝ち進み、なんと決勝戦に突入。その間中村は本塁打を量産し、なんと1985年に清原和博が打ち立てた1大会最多本塁打記録を6本に更新。不可能だといわれていた大記録をぬりかえたことで大きな話題になりました。
 

その後の中村はこの年の秋に行われたドラフトで1位指名を受けて地元の広島カープに入団。今後の活躍が期待されます。
 

100回目の夏、球児はどんなドラマを紡ぐ?

いかがでしたでしょうか? 歴史の数だけスター選手がいることがわかると思います。記念すべき100回目を迎える今夏の甲子園、新たなスター誕生を心待ちにしましょう。

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