ミュージシャンとして一つの理想形

2011年にイベントに参加していたムッシュかまやつさん(写真:MANTAN/アフロ)

ムッシュかまやつ(かまやつひろし)さんが亡くなった。
78歳というお年が早かったのかどうかわからないが、彼の人生はミュージシャンとして一つの理想形であったように思える。
 

当初は"二世タレント"的な見方もあった

かまやつさんの父上は日本のジャズミュージシャンの草分けで『日本ジャズ学校』創立でも知られるティーブ釜萢さん。

その影響もあり学生時代からジャズやカントリー&ウェスタンに傾倒し、バンド活動をスタート。1958年には当時の音楽界を席巻したロカビリーブームの旗手の一人として脚光をあび、以降数々のレコードをリリースし映画にも出演した。

当初は今で言う"二世タレント"的な見方もあったが(同時期に活躍したミッキー・カーチス、平尾昌晃、弘田三枝子らは日本ジャズ学校の出身)、そんなことはどこ吹く風でかまやつさんの音楽的才能は花開いていった。
 

"ロック"の概念をいち早く身につけたセンス

かまやつさんの最も秀でた才能は、最新の音楽を理解して体現する鋭いセンス。まだ日本の歌手やミュージシャンが"ロック"と言う概念をほとんどつかめていなかった時代に、かまやつさんはいち早く技術的に、精神的にそれを身につけていた。

たとえば1960年にリリースした『ティーンエイジ・ブギ』はアメリカのカントリー歌手、ウェブ・ピアースのカバーだが、本家のバージョンよりもなお軽快で、シャウトを挟んだりとロック的な解釈を加えることに成功している

同時代の歌手のほとんどが、最新流行のロックンロールやロカビリーをカバーしてもリズム感や激しさではいささか退行してしまっていることに較べると画期的なセンスだったと言えるだろう。
 

グループサウンズブームを巻き起こす

この才能は1963年以降のザ・スパイダースとしての活動で満開となる。

揃いのミリタリールックに耳をつんざくエレキサウンド……
ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを意識したその斬新なバンドスタイルが当時の若者に衝撃をあたえ、1960年代半ばに至って日本中にグループサウンズブームを巻き起こしたのだ。


後にザ・タイガースと名乗ってグループサウンズブームを代表するアイドルになった沢田研二さんや岸部一徳さんもザ・スパイダースのファンクラブに所属していたと言えばその凄さがわかるだろうか。
 

GS
談笑する井上順、萩原健一、かまやつひろし、沢田研二(写真:Kodansha/アフロ)

作曲をてがけた『フリフリ』、『バン・バン・バン』、『あの時君は若かった』など一連のヒット曲も当時の日本では非常にあか抜けた、高い音楽性に裏打ちされたものだった。


今もグループサウンズブームを代表する名曲として愛され続け、国内外のミュージシャンにカバーされていることからも、かまやつさんがいかに稀有な普遍性をもったミュージックメーカーであるかがわかる。
 

スパイダース解散後は「若き才能への応援者」に

1970年、スパイダース解散以降のかまやつさんは改めてソロシンガーとして『どうにかなるさ』や吉田拓郎とのコラボレーション曲『シンシア』、『我が良き友よ』など数々の話題曲、ヒット曲を世に送り出したが、同時にプロデューサーとしての活動も活発になる。


デビューや飛躍のきっかけを作ったアーティストは有名なものだけでもガロ、荒井由実(現・松任谷由実)さん、THE ALFEE、レイジー(LOUDNESS高崎晃さん在籍)……またプロデュースという形ではないが晩年にもRIZEのKenkenさんや若干17歳のギタリスト、山岸竜之介さんと言った若きミュージシャン達とユニットを結成していた。

かまやつさんは若き才能への応援者としても、日本のロック、ポップスに大きな影響を与えたと言えるだろう。

こうして書き綴っていると、世間体や上下関係にこだわらない、音楽への飽くなき欲求こそがかまやつさんの本質なのだったとつくづく思える。

死の直前まで多くの人に愛され、第一線で活躍し続けたかまやつさん。
かまやつさんが大きな満足感に包まれ永遠の眠りについたことを願いたい。
 

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