誰もが「操り人形」で終わると見ていた男は、なぜ恩人たちを次々と切り捨て、独裁者へと豹変したのか。その恐るべき変貌の原動力となった、意外な「コンプレックス」とは──。
中国通として知られるフリージャーナリスト・武田一顕氏の著書『日本人が知っておくべき中国のこと』(辰巳出版)より、習近平の知られざる素顔に迫ります。
習近平とはどのような人物なのか
習近平という人がなぜこれほどまでの権力を持つに至ったのでしょうか? 彼は一体どんな人物なのでしょうか?習近平は、1953年6月15日、北京で生まれています。北京の旧称は「北平」、その北「平」の近くで生まれたので、近平と名付けられたといいます。性格はクール。非情といってもいいかもしれません。
習近平は2012年の第18回党大会で最高指導者の総書記に就任しましたが、前任の胡錦濤は、本当は習近平を総書記にさせたくありませんでした。
中国には「中国共産主義青年団(共青団)」という若手エリートを擁する教育機関があります。
1920年に秘密結社として発足した「社会主義青年団」から1925年に改称した共青団は、中国共産党の基盤をつくるために選び抜かれた14歳から28歳までの秀才が、中国特有の社会主義や共産主義を徹底的に叩き込まれる組織です。高校や大学で優秀な人間がいると、勧誘しエリートとして育てるわけです。
その共青団出身である胡錦濤は、同じ団派の後輩であり自らが後継者として育てた李克強(りこくきょう)を推していました。胡錦濤時代に胡の盟友だった国務院総理の温家宝(おんかほう)も李を推していました。
ところが、対立する江沢民派が習近平を総書記にしろと言ってきた。
江沢民派が李克強に反対なのは当然です。胡錦濤が総書記を務めていた10年、江沢民派はずっと非主流派として苦汁を飲まされ、我慢していたわけです。
10年も我慢してきたのにまた胡錦濤の子分がトップとは……。そんなことは許せません。だから、江沢民は自分の派閥から総書記を出したかった。かといって自分の派閥から後継者を出せば、胡錦濤一派が拒否するのは火を見るより明らか。
そこで江沢民が切った人事のカードが習近平でした。つまり、習近平は、江派と胡派の妥協から生まれ、棚ぼた式に総書記の座に就いたわけです。
「つなぎ役」が独裁者に豹変する
この時点で、習近平がまさか大鉈を振るうとは、江沢民は考えていなかったでしょう。自分のおかげで習近平はトップになれたのですから、江沢民は習近平を意のままに操ろうとしていたかもしれません。感謝されることはあっても、裏切られるわけがない、……はずでした。一方の胡錦濤も自らの派閥である団派の力をバックに影響力を保ち、習近平をコントロールできると考えていました。
ところが総書記になり実権を握った習近平は、前任者だった胡錦濤一派はもちろんのこと、恩人であったはずの江沢民一派も、容赦なく粛清していきました。やられたほうはびっくりしたでしょう。
胡錦濤はよりによって、習近平に気前よく実権を明け渡していました。2012年に党総記、党軍事委員会主席、2013年に国家主席という最重要な3つの役職すべてを習近平に譲り渡したのです。
というのも、これより10年前、自らが共産党総書記に就任した2002年、前任者の江沢民は、党軍事委員会主席の役職をすぐには胡錦濤に明け渡しませんでした。共産党トップは軍事のトップを兼ねてこそ権力をふるえるのに、それができず、胡は不自由を感じていました。部下たち、特に軍部が自分の言うことを聞かないのです。
また、改革開放により、経済が急成長する中、西側の文化が中国に入り込み、中国共産党の威信は低下しつつありました。もう一度、共産党の支配を確立するためには、強いトップが必要だ…そう考えた胡錦濤は、習近平にすべての権限を委譲することを決断したのです。
ところが、胡錦濤の思惑通りにはなりませんでした。非情な習近平は胡をその一派である団派ごとバッサリと切ってしまいます。



