いまでは気鋭の教育ジャーナリストとして知られる、おおたとしまさ氏が、プライベートでは新米パパであり、仕事では駆け出しのフリーライターだった約15年前にAll Aboutで綴っていた子育てエッセイ連載「パパはチビのヒーローだ!」が、このたび『人生で大切なことは、ほぼほぼ子どもが教えてくれた。』(集英社文庫)という文庫になった。
刊行を記念して、文庫に収録されている約60本のエッセイのうち11本を厳選して連載する。All Aboutのかつての人気連載が15年ぶりの復活だ。
教育ジャーナリストが自戒の念を込めておくる現役パパへのメッセージ【第5回】他人のふり見てわがふり直す!
自分が親になると、街中で子連れに目がいくようになりますよね。しかも、子どもたちみんなが、どの子も、かわいく見えますよね。子どもという生き物を見る視点なのか解像度なのかが変わるんでしょうね。
抱っこされてニコニコの子どもと目が合えば、こっちもニコニコになって微笑み返してしまいます。言うことを聞かない子どもに対してキレそうになるのを必死に我慢している親御さんを見ると、「わかるよ、僕もパパだから」と声をかけたくなります。公衆の面前で𠮟られ続けている子どもを見ると、ついかばってあげたくなってしまいます。
でもあの親子はぜんぶ自分です。他人から見れば、きっと私もそう見えています。「子どもは社会の宝」といわれます。親にとって、自分の子どもがいちばん大切に思えてしまうのは当然です。しかし、まわりの子どもたちだって、わが子と力を合わせて未来の社会を築いていくパートナーです。彼らがたくましく、賢く、しあわせに育ってくれないと、わが子の未来も危うくなります。ひとは一人では生きていけないから。その意味で、社会全体で子どもを大切にするのは当然です。
しかし、「子どもは社会の宝」にはもう一つの意味があると私は思っています。「あなたのお子さんは、たまたまあなたのところに生まれてきただけであって、そもそもあなたのものではないのですよ。立派に育てて社会にお戻しするまでが親の役割ですよ」という意味にも解釈できます。まるで「かぐや姫」ですね。子どもを私有化してはいけないということです。
そのような意識が広まれば、子育てという社会的ミッションの公共性が認められやすくなり、社会のムードも変わるんじゃないかと思います。逆に世の親が、わが子のかわいさばかりに目を奪われ、子どもを私有化していると、ますます子育てのしにくい社会になっていくのではないかと思います。
たとえば、私が新米パパ時代、こんなことがありました……。以下、約15年前の連載に掲載されていたエピソードです。
スタンプラリー(チビ6歳・ヒメ3歳、15年前当時)
夏休み恒例、スタンプラリーは親にとって地獄の一日。
チビといっしょに行ってきた。
「次はここ」
「……ええっと、大船ね」
「次はこっち」
「……っと、大船の次は柏かよ!」
勘弁してくれ〜。
「電車の中で自分の子どもが騒いでいるのに、注意もしない親が多い」と嘆くひとがいる一方で、スタンプラリーの様子を見ていると、電車の中で騒ぐ子どもをそれ以上に大きな声で叱る親が目につく。
そのときの親の気持ちはきっとこうだろう。
「電車の中では大きな声を出しちゃいけないってことをしっかりしつけなきゃ。でも、静かに諭しても言うことは聞かない。ああ、どうしよう。静かにしてほしい。このままじゃ、私が困っちゃう。あめ玉をあげれば静かになるかもしれないけど、それじゃしつけにならない。やっぱり大きな声で叱るしかない」
「私が困っちゃう」という部分が本音なんだと思う。
それを親自身、自覚することが重要だと思う。
単に子どもを静かにさせたいなら、あめ玉をあげる作戦もあるだろう。
しかし、「しつけ上好ましくない」という考えが交錯するからややこしくなる。
「静かにしてくれないと自分が困っちゃう」から怒りが湧いてきているのに、それを「しつけなきゃいけないから」という義務感とすり替えて、叱りすぎてしまったりすることがあるんじゃないかと思う。
「これだけ言ってるのに、言うこと聞かないなら、もう知りません」なんて、車両中に聞こえるような大声で言ってしまっている親の本音は「私はちゃんとしつけようとしてるのです。悪いのは私じゃないんです。悪いのはこの子なんです」って車両中のみんなに訴えて、「責任」を逃れたいと思っているのだと思う。
でも、それは何に対する「責任」?
「電車の中では静かにするもの」ということを伝えるのは、親から子どもへのしつけの責任。でも、実際に電車に乗っているときに子どもを静かにさせるのは親の社会人としての責任。この違い、わかるでしょうか?
「子どもに対するしつけの責任」と「社会人としての責任」を同時に果たそうとするから無理がある。
状況に応じて、「しつける」ことと「静かにさせる」ことのどちらを優先するかというのを意識して選択すべきなんだと思う。
「電車の中では静かにする」というしつけをしたいなら、本来は電車の中ではないほうがいい。
電車の絵本でも買って、「ほら、電車の中ではみんな静かにしてるでしょ。たくさんひとの集まる場所ではお互いに迷惑にならないように、静かにするお約束なんだよ」とか言って、おうちでしっかり教えるべきなんだと思う。
電車に乗った時点でできていないしつけが、電車を降りるまでにできるわけがないのだ。
「事件は現場で起きているんだ! 会議室で起きてるんじゃない!」って名ゼリフがあるけれど、しつけに関しては、
「しつけは現場でするんじゃない! おうちでするんだ!」というのが正しい気がする。
だから僕は、電車が混んでいたり、近くに怖そうなひとがいる場合は、「しつけ」をあきらめ、「静かにさせる」ことを優先する。
だから、ときとしてあめ玉を渡したり、「到着するまで静かにできたらジュース買ってあげる」と取り引きすることもある。
しつけ上は禁じ手だ。
でも、電車の中が比較的すいていて、まわりに怖そうなひとがいない場合には、電車の中でも「しつけ」を試みる。
状況によって態度が違うと、子どもが戸惑うという意見もあるが、それこそ「空気を読む力」。
親の状況判断から、子どもは「空気を読む力」を身につけるのではないかな。
わかったように書いていますが、最初は私もぶち切れてましたよ、電車の中で。でも、あるとき自分が二重の役割の板挟みになっていることを自覚しました。そこからは状況に応じた判断ができるようになりました。あめ玉作戦をしてしまうとしつけができなくなるというのは噓だと思います。子どもはそんなにバカではありません。
教育ジャーナリスト。「こどもが“パパ〜!”っていつでも抱きついてくれる期間なんてほんの数年。いま、こどもと一緒にいられなかったら一生後悔する」と株式会社リクルートを脱サラ。独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を務め、現在は、子育て、教育、受験、進学、家族のパートナーシップなどについて、取材・執筆・講演活動を行う。『勇者たちの中学受験』『ルポ名門校』『不登校でも学べる』など著書は約80冊。