記録よりも記憶に残る!プロ野球個性派選手列伝~土橋勝征編~

80年以上の歴史を誇るプロ野球。その中では数々の名プレーヤーが生まれてきましたが、決して大記録を打ち立てた選手ばかりが目立ってきたわけではありません。ここでは華やかなタイトルこそないものの、チームに欠かせぬ名バイプレーヤーを紹介します!

野村ID野球の優等生、土橋勝征とは?

内外野をこなせるユーティリティープレーヤーとして活躍した土橋勝征

今年2月に逝去した野村克也。現役時代の実績もさることながら、監督としても3度の日本一に輝いたプロ野球史上の名将としても知られています。

そんな野村の3度の日本一はいずれもヤクルト時代のもの。1990年から9シーズン監督を務め、それまで弱小チームだったヤクルトにデータを重視したID野球を持ち込んだことでリーグ優勝4回、日本一3回の超強豪球団へと変身させました。

そんな90年代のヤクルトの主力と言えば、野村の愛弟子として知られた古田敦也や「イケトラコンビ」と称された池山隆寛、広沢克実らが有名ですが、その中でもID野球に欠かせない存在として高い評価を得ていたのが土橋勝征。1995年の日本一の際には野村監督自身が「裏のMVP」という最大級の賛辞を送った選手です。
 

イップスに苦しむ土橋を復活させた野村マジック

現役20年間で通算本塁打数は79本、生涯打率は.266とさほど目立つ成績を残していない土橋ですが、印旛高校時代は強打をウリにしたショートとして知られ、3年生の夏の県大会では千葉県大会記録となる5本塁打をマーク。甲子園大会にこそ無縁でしたが、大型ショートとして注目され、1986年のドラフト会議ではヤクルトが2位で指名して入団します。

ちなみにこの年のヤクルトのドラフト指名選手は土橋のほかにもギャオスの愛称で知られた内藤尚行(3位指名)や後に俊足を生かしたリードオフマンとして台頭する飯田哲也(4位指名)らが入団するという大当たりのドラフト指名となりました。

同期入団の2選手が2年目から一軍を経験し、3年目には中心選手となっていった中で、プロ入り3年目の時点で土橋の一軍通算出場試合数はわずか10試合と出遅れます。というのも、このころの土橋は自慢の打撃が湿りがちで、思うように成績を残せなかったことでいつしかイップスにかかってしまい、二軍でくすぶる日々を送ることになります。

土橋のイップスを克服させるため、監督に就任して2年目を迎えた野村は土橋をそれまで守っていた内野ではなく、あえて外野へコンバート。送球面で苦しんでいた土橋にとって大きなモーションで送球する外野守備はイップスを克服するのに効果抜群。いつしか土橋は堅実な外野守備に加えて、勝負強い打撃で存在感を示すようになり、一軍に定着するようになりました。
 

徹底した右打ちで裏MVPの賛辞を得る

外野守備が板についてきた1994年、土橋に転機が訪れます。前年にセカンドを守っていたハドラーが退団し内野の一角が空いたことで、熾烈なレギュラー争いが展開されましたが、セカンドのレギュラー候補の選手は軒並み定着できず、リーグ3連覇を目指したチームも勝率5割を行ったり来たりという煮え切らない状況でした。そこで6月からは土橋がセカンドにコンバートされて起用されるようになりました。

これまでライトを守ることが多かった土橋ですが、それまでの3シーズンで捕殺はわずか9と外野手として肩はあまり強くなかったため、完全なレギュラーに定着できずにいましたが、本職の内野守備に戻ったこと、さらに高校時代からの持ち味である長打を捨てて右打ちに徹底するチームバッティングを重視するようになったことでチームに欠かせぬ存在に。自身初となるシーズン100試合以上の出場を果たすなど、レギュラーの座を勝ち取りました。

そしてプロ入り9年目となる1995年。この年から土橋は背番号を38番から5番に変更しただけでなく自身初の開幕スタメンにも名を連ねるなど、期待されてシーズンを迎えましたが、土橋の活躍は前年をはるかに上回るもの。開幕当初は下位打線を打つことが多かった打撃では重要な局面での殊勝打が評価されたことでシーズン後半には3番打者に定着。この年のセ・リーグ1位となる32二塁打を放つなど、その起用に見事に応えました。

さらにセカンドの守備だけでなく、チーム状況によってはかつて守っていた外野に回って美技を見せるなど、ユーティリティープレーヤーとして八面六臂の活躍を収めるように。この年の土橋の打撃成績は打率.281、9本塁打と特別目立ったものではありませんでしたが、玄人好みのプレースタイルが高く評価され、MVP投票でも3位票を多く集め、辛口で知られる野村監督からは先述の通り「裏のMVP」という最大級の賛辞を送られました。
 

玄人好みの打撃で大魔神に引導を渡す

プロ野球選手として成熟した土橋ですが、翌1996年は一転して試練の年に。同じセカンドを守り、さらにはプレースタイルが似ているベテラン辻発彦が西武から移籍。野村監督は「辻のプレーを見て勉強させる」という意味合いで獲得したといいますが、セカンドを奪われた土橋は再び外野を守るようになり、便利屋として起用されるシーンが目立ちました。

翌年から再びセカンドのポジションを奪い返しますが、野村が監督を退陣した1999年以降は打撃面で目立たぬ存在に。若松勉が監督になって3年目の2001年にチームは日本一に輝き、土橋も規定打席に到達しますが、打率は.249とリーグ最下位。そしてこれ以降は出場機会が徐々に減っていきました。

しかし、レギュラーを奪われた後も存在感を示すのが、土橋がいぶし銀と呼ばれたゆえん。中でも印象深いのが佐々木主浩との対戦。2004年にメジャーから復帰した佐々木に対し土橋は徹底的に打ち込み、2005年4月21日の対横浜戦では佐々木からサヨナラタイムリーを放って勝利。この試合を最後に佐々木は二軍に降格し、8月9日の巨人戦で引退登板をしたため結果的に「佐々木に引導を渡した男」として知られるようになりました。

そんな土橋ですが、プロ入り20年目となった2006年は開幕から二軍暮らしが続き、ついに現役引退を表明。翌年から二軍の打撃コーチに就任して指導者として転身し、以来、2020年までヤクルト一筋の球歴を歩みました。
 

いぶし銀のDNAは脈々と受け継がれる

いかがでしたか? 現在のヤクルトのセカンドは球界屈指のスター選手である山田哲人が守るポジションとして知られていますが、25年前は山田とはタイプの違う土橋が守っていたというのが実に興味深いですね。現役引退後もヤクルトから離れたことがないなど、ファンだけでなく、球団からも高く評価された選手であることを裏付けます。

今季は二軍内野守備走塁コーチとして辣腕をふるっている土橋。ヤクルトの二軍練習場である戸田球場でノックする姿が見られることでしょう。土橋のDNAを受け継ぐ選手が現れる日が待ち遠しいですね!

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