人気お笑いグループ『ザ・ドリフターズ』で活躍。テレビのバラエティ番組などに出演し、息の長い人気を集めていたタレントの志村けんさん(70歳:本名は志村康徳)が3月29日の午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため、東京都内の病院でご逝去されました。
志村けん=生粋の“コメディアン”
「ビッグ3」と呼ばれるタモリさん・ビートたけしさん・明石家さんまさんとは一線を画した、「老若男女問わずに楽しめるお笑い」を最後まで追究し続けた生粋の“コメディアン”──実際(ぼくをも含む)あらゆる媒体が志村さんの肩書きを「タレント」と表記するさなか、NHKは一貫して「コメディアン」と紹介しています。
当然のこと、世代によって志村さんに対する想い入れ、受け止め方は微妙に異なってくるようですが、ゴメス(1962年生まれの満58歳)世代にとっての「志村けん」とは、はたして……? 今日はまだぼくが幼少だった時期からのおぼろげな記憶を自分なりに紐解きながら、その偉業の“ホンの一部”を振り返ってみましょう。
ビートルズ東京公演の前座としてステージにも立った実力派の“音楽バンド”でもあった『ザ・ドリフターズ』の名を世に知らしめた、視聴率50%を叩き出したこともあるという伝説のバラエティ番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)をぼくが初めて観たのは、たしか小学3年生あたり──早熟だったわけでも晩熟だったわけでもない、それがいわゆる「当時はどこにでもいた典型的な小学生」だったと思われます。
世代で違う「ドリフ」の印象
そして、ぼくよりも10歳、いや下手すりゃ5歳以上年下の皆さんにはもはや信じられない事実なのかもしれませんが、我々世代にとってのドリフのメンバーは「(故)いかりや長介・高木ブー・仲本工事・(故)荒井注・加藤茶」の5人で、“オチ役”としてトリを務め、子どもたちから圧倒的な支持を受けていたのは、自転車に乗るお巡りさんに扮しての「どうもすんづれい(失礼)しました」、PTAからも総攻撃を受けたストリップネタ「ちょっとだけよ、あんたも好きねえ〜」……ほか、数々のギャグでお茶の間を沸かせた加藤茶さんでした。
ところが!「This is a pen!」「なんだ、バカヤロウ!」……と、持ち前のふてぶてしさを“味”とする渋い一発ギャグでスマッシュヒット(?)を飛ばしていた荒井注さんが「体力の限界」を理由にドリフを脱退。そこで“後釜”に抜擢されたのが、付き人としてドリフのもとで働いていた志村さん(※荒井さんとのメンバー交代間際は6人で出演していた時期もあり、「志村けん」のテロップの上には「見習い」という肩書きが付いていた記憶があります)。正直、最初の2年くらいは「鳴かず飛ばず」といった感じでしたね。「なんだ、この若造は(ぼくらのほうが全然若造だったにもかかわらずw)! 荒井注のほうが全然面白いやん」ってのが、たぶん大半の視聴者の共通認識だったはず……。
ところが!! 「少年少女合唱団」のコーナーで『東村山音頭』を唄ったことで、志村さんは一気にブレイク。「カラスの勝手でしょ」「ヒゲダンス」……と、大ヒットギャグを連発し、『8時だョ!全員集合』の“オチ役”を不動のものとしました。ただ、『東村山音頭』以降、志村さんが快進撃を果たしたころは、ぼくももう中学〜高校生。『欽ドン』や『オレたちひょうきん族』(ともにフジテレビ系)といった強力なライバル番組が裏でも登場したせいか、(少なくとも)ぼくの脳裡には、いまだ「『8時だョ!全員集合』の“オチ役”=加藤茶」とのイメージがこびりついたままなのです。
「志村けんの面白さ」とは?
我々世代が「志村けんの面白さ」をあらためて真摯に実感できたのは、やはり「バカ殿」や「ヘンなおじさん」などに代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立してから……ではないでしょうか。萩本欽一さんの素人イジリ芸や、ひょうきん族のアグレッシブな笑いを支えていた漫才ブームもようやく一段落し、すでに“大人”になっていたぼくたちは、志村さんの「老若男女問わずに楽しめるコント」に、流行り廃りのない“王道の笑い”を見いだしたのかもしれません。
昨今、志村さんの追悼特番が各局で続々と放送され、そのどれもが高い視聴率を弾き出していると聞きます。我々受け手側にはまったく想定外の“機転”や“ハプニング”から生まれる最新トレンド的な「反射神経重視の笑い」も、たしかにスリリングではありますが、なにが起きるか予想できても面白い、まるで「直球だとわかっていても打てない」と打者に言わしめた全盛期の藤川球児さんが投げる“火の玉ストレート”のごとく、ドスンと胸に響く「ただそこにいるだけで笑える志村さん」の存在感は、唯一無二として永遠に語り継がれることに間違いありません。心よりご冥福をお祈りいたします。