50代の主婦Aさんは、「うちの夫は、給料が少なくて……」と話します。彼女の夫は自営業で、小さいながら店舗を経営しています。
「他人の看板で暮らす会社員」と比べ、「自分の城を持つ自営業」は、それだけでも素晴らしいものに見えます。ですが、Aさんからすると、「同世代の会社員からすれば、うちの夫は薄給だ」と、鬱屈感を隠せない様子でした。
くわしく話を聞いてみたところ、Aさんの夫の年収は約300万円。50代であるAさんから見ると、たしかに薄給に見えてもおかしくない水準でした。
他人の芝は青く見える
僕らは「他人の芝が青く見える」生き物です。だから、「お隣のBさんと比べて給料が高い」と分かれば思わずニヤけるもの。逆に「お向かいのCさんと比べて給料が低い」と分かれば、一気に熱が冷めてしまうものです。
この基準で見るなら、薄給とは「同世代の同性と比べて年収が少ないこと」といえそうです。
たとえば、40代前半の男性の場合、年収の中央値は550万円ほど。この水準を下回ると、「自分は周りと比べてお金が少ない」と感じるでしょう。
他人を基準に考えると永遠に薄給に
とはいえ、「他人と比べて」いる限り、僕らは永遠に薄給から抜け出せません。
「同世代の同性と比べて、自分の年収が高い」としても、比較対象を引き上げて「一回り上の同性と比べて、年収が低い」と感じれば、すぐに薄給と感じてしまうのです。
世界には「上には上がいる」もので、世界一の大富豪にでもならない限り、薄給の基準は永遠につり上がっていくでしょう。
そう考えると、他人と比べて「自分が薄給かどうか」と考えるのは不毛でしょう。
ささやかな生活を楽しめるかぎり「十分」
他人と比べても意味がないことを考えると、行き着く先は、「(自分のステータスを誇示したいという欲求を抜きにして)将来へ備えながら、今を生き、自分が心の底から楽しいと思えることに打ち込む余裕があるかどうか」が、薄給の境界にふさわしいでしょう。
たとえば、筆者は散歩と読書と友人との会話が大好きです。散歩・読書・友人との会話があれば、たぶんそれだけで幸せだし贅沢です。最低限の貯蓄と、生活費と、好きなことに打ち込む費用をあわせると、月25万円あれば十分過ぎるほどです(筆者は首都圏に住んでいるので、住宅費はやや高めです)。
お金がかかる趣味を持つ方の場合も、「なぜ、今の趣味が好きなのか?」と突き詰めていくと、お金のかからない形で欲求を満たす方法が見つかるものです。気づけば、薄給の基準は、自分が思っているよりうんと低いことに気付くはずです。
目の付けどころを間違えない
身長が165cmの成人男性が、180cmの人を見て「背が高くて羨ましい」と思ったところで、差を埋めることはできません。他人と収入を比べることも、これと同じです。
とはいえ、「身長165cmでも、好きな女性と結婚できて、好きな暮らしを送れている」ことに目を向ければ、うんと現実が充実して見えます。結局、大事なのは他人ではなくて自分です。目のつけどころを間違えないよう注意が必要ですね。