「平成不倫」のはじまりは、やっぱりあの人!?
平成8年10月、自らの不倫関係を問われた俳優の石田純一氏は、「芸術や文化というものが不倫から生まれることもある」と言った。これが曲解され、キャッチーに「不倫は文化」と縮められて世に出回ってしまった。その半年後に報道番組のキャスターに就任するも、夏にまた「恋人」であった長谷川理恵との写真を撮られてキャスター降板。仕事は来なくなり、離婚もし、借金まで抱えることとなった。
昔から、芸能スキャンダルのひとつとして不倫はあった。このころから不倫バッシングが大きくなっていったような気がする。昭和末期、あの沢田研二も離婚して、それまで不倫関係にあった女優・田中裕子と結婚した。糸井重里と樋口可南子夫婦は、結婚するまで10年以上不倫関係を続けていた(子どもが大きくなるまでは離婚しないということで、妻も容認していたらしい)。今だったらどれほどのバッシングになるかわからないが、当時は「オトナの事情」に寛容な社会風土があった。
ネット社会でなかったから、情報の多くはテレビからもたらされた。公の電波を使っての放送で、毎日ひとりを責め立てるわけにもいかなかったのだろう。そして人々は有名人スキャンダルに飽きていった。
平成を象徴する不倫は、あの人?
平成を象徴する不倫といえば、やはりベッキーかもしれない。相手のミュージシャンのグループ名にひっかけて「ゲス不倫」とまで呼ばれてしまった平成28年の正月の一件だ。彼女はそれまで優等生だった。そして今でも、おそらくまじめで根が真摯なのだと思う。そんな彼女が今年初めに結婚。最近、ようやく地上波でもときどき姿を見るようになった。
だがネットは冷ややかだ。「いつか子どもができたら、その子はきっとベッキーの過去を知ってしまうはず。どうするんだろう」という意見を目にしたときは驚いた。そこまで他人がおせっかいをする必要もなかろう。
この件は、彼女が不倫したこと以上に、それを非難、批判する「一般人」のありようが露呈された。本来は当事者たちの間で解決されるべき問題が、なぜか世間を巻き込み、しかも男性側より女性側が批判されてしまう世の中のありようが怖かった。彼女のほうが知名度があったことに加え、やはりそれまでの「イメージ」が覆されたことに世間は厳しかったのかもしれない。
「そんなことをするはずではなかったのに」というイメージが人を激怒させる。それが「正義」からはずれたことであればあるほど叩きやすい。
宗教には詳しくないが、この件で真っ先に思い出したのがヨハネの福音書である。姦淫した女を取り巻く公衆に向かってイエスはこう言ったとされる。
「汝らの中で、罪なき者、石もて打て」
もちろん、誰も彼女を打つことはできなかった。