サッカー界にとっての平成という時代は、大きな転換期だったと言うことができる。日本代表がアジアで勝つことにも苦労していた時代から、W杯や五輪に連続して出場するまでに成長したからだ。その足跡を辿っていく。
 

日本代表はアジアでも勝てなかった

日本代表にとって平成初の公式戦は、1989年(平成元年)のイタリアW杯アジア1次予選だった。北朝鮮、香港、インドネシアとのホーム&アウェイで2勝3分1敗に終わった日本は、北朝鮮の後塵を拝して最終予選進出を逃す。
 

90年(平成2年)にはブラジルでプロになった三浦知良(カズ)が帰国し、ブラジルから帰化したラモス瑠偉とともに代表入りする。それでも、日本は同年秋のアジア大会でサウジアラビアとイランに敗れ、ベスト8に終わる。アジアでも勝てないのが、当時の日本の実力だった。
 

チームの競争力が高まったのは92年(平成4年)だ。史上初の外国人監督としてオランダ人のハンス・オフトが就任し、組織力の急速かつ大幅な向上が図られていく。同年秋のアジアカップでは、2年前に手も足も出なかったイランやサウジも撃破して初優勝を遂げた。
 

翌93年(平成5年)には、この年の新語・流行語大賞で年間大賞に選ばれる「Jリーグ」が開幕する。新語部門の金賞にも「サポーター」が選ばれたように、サッカーは日本に一大ブームを巻き起こした。
 

“ドーハの悲劇”と“マイアミの奇跡”

同年10月、日本はアメリカW杯アジア最終予選に挑む。中立地のドーハ(カタール)で6カ国が総当たりのリーグ戦を戦い、上位2カ国が出場権を獲得する。
 

Jリーグの過密日程でコンディションを崩す選手もいたが、日本は最終戦を前に2勝1分1敗で首位に立っていた。イラクとの第5戦も2対1とリードして終盤を迎えるが、終了直前にまさかの失点を喫してしまう。得失点差で3位に滑り落ちた日本は、出場権をつかむことができなかった。
 

“ドーハの悲劇”と呼ばれるアメリカW杯アジア最終予選からおよそ2年半後の96年(平成8年)3月、日本サッカーは大きな一歩を踏み出す。28年ぶりの五輪予選突破を果たしたのだ。五輪の男子サッカーは92年大会から23歳以下の選手に出場資格があり、Jリーグで揉まれた川口能活や前園真聖らが世界への扉を開いたのだった。
 

同年夏の本大会では、サッカー王国ブラジルを1対0で破る大番狂わせを演じる。試合会場が行われた都市の名前を冠して、“マイアミの奇跡”と呼ばれる一戦だ。
 

“ジョホールバルの歓喜”で初のW杯予選突破

 翌97年(平成9年)には、フランスW杯アジア予選がスタートした。日本の予選突破は“国際公約”だった。韓国との2002年W杯共催が決まっており、歴代のホスト国は漏れなく予選突破の経験を有していたからだった。
 

1次予選は問題なくクリアした。韓国、イラン、サウジアラビアらとともにアジアをけん引するまでに、日本は成長していた。
 

9月から11月にかけて行われた最終予選は、ジェットコースターのようだった。ウズベキスタン戦の大勝からスタートするが、韓国との第3戦で逆転負けを喫する。続くカザフスタン戦も引き分けに終わり、加茂周監督が電撃解任された。
 

コーチから昇格した岡田武史監督のもとでも、流れは変わらない。ウズベキスタン、UAEと2試合連続引き分けに終わる。残り2試合のこの時点で、自力での予選突破の可能性が消滅した。
 

しかし、敵地ソウルで韓国を2対0で下すと、負の連鎖が断ち切られた。続くカザフスタン戦も5対1で勝利し、グループ2位に滑り込む。別グループ2位のイランと、一発勝負の第3代表決定戦に挑んだ。
 

背番号14番が岡野。中央で手を広げているのが三浦知良(写真:AP/アフロ)

マレーシアのジョホールバルを舞台とした決戦は、激しいシーソーゲームとなる。日本が中山雅史の得点で前半に先制すれば、イランは後半開始直後に同点とし、59分に逆転する。
 

日本も負けていない。76分、途中出場の城彰二のヘッドで同点に。試合は延長へもつれていく。
 

ここで輝いたのが“野人”こと岡野雅行だった。何度もチャンスを逃したものの、118分にW杯出場決定を決める得点を突き刺したのだった。日本中が沸き上がったこの一戦は、“ジョホールバルの歓喜”として記憶されている。
 

「カズの落選」とW杯初出場

翌98年(平成10年)のフランスW杯は、大会直前に大きな衝撃が走った。最終予選途中から調子を落としていたカズが、登録メンバーから外れたのだった。
 

日本はアルゼンチン、クロアチアに0対1で連敗し、初出場同士の対戦となったジャマイカ戦も1対2で敗れた。世界の舞台に立った興奮は日本中を包み込み、チームは4年後の日韓W杯へ向かっていくことになる。