一筋縄ではいかない個性派ぞろいの選手たち
プロ野球選手になった選手たちの多くが高校や大学などの学生時代から野球部で活躍し、ドラフト会議で指名されるのがほとんど。少なくともこの時点で野球部にいないとプロ入りはもちろん、スカウトの目に入ることはないでしょう。
ところが、プロ野球の歴史を振り返ると子供のころから“野球エリート”だったという選手は少数派。中には一見、後に野球選手となるとは思えないような経歴を持った選手がいます。そこで、プロ野球史に残る変わり種の経歴を持つ選手たちをまとめてみました。
その1:飯島秀雄(元東京)
野球の本場、アメリカのメジャーリーグではマイケル・ジョーダン(NBA)やボー・ジャクソン(NFL)のように異なる競技でそれぞれプロになるマルチプレーヤーが存在しますが、日本球界ではこの飯島秀雄が唯一無二のマルチプレーヤーとして知られています。
飯島が最初に頭角を現したのは野球ではなく陸上でした。10秒1という当時の新記録を樹立して1964年の東京五輪、1968年メキシコ五輪と続けて出場。どちらも100m準決勝で敗退しましたが、日本人最速ランナーとしてその名を馳せました。
そんな飯島に目を付けたのが東京オリオンズ(マリーンズの前身球団)の名物オーナーである永田雅一です。代走の専門選手であれば飯島の俊足が活きると考え、1968年のドラフト会議で9位指名のサプライズ。こうして飯島は野球経験ゼロのままプロ野球選手になりました。
その後飯島がプレーしたのは3年間のみ。117試合に代走として出場して盗塁は23、成功率は57.5%とごくごく平凡な数字に終わりました。
その2:落合博満(元ロッテなど)
今でこそプロ野球史上唯一、三冠王を3度獲得した伝説のスラッガーとして知られる落合博満ですが、プロ入り前の経緯はまた複雑なものでした。
秋田工業の野球部に入部しますが、「先輩の言うことは絶対」、「体罰もやむなし」とするかつての体育会系特有の指導が合わず、入退部を繰り返すことに。また、東洋大学へ進学するも、半年後には退学しました。その後地元の秋田県に帰ってボウリング場でアルバイトをした経験からプロボウラーを目指すようになりましたが、これも挫折。
これが大きなターニングポイントになり、落合の才能を知る高校時代の恩師が社会人野球に所属する東芝府中に入社させると、落合は本塁打を量産し、都市対抗野球でも活躍しました。これでプロへの道を開き、ドラフト指名された1978年時点で25歳という非常に遅いプロ入りを果たしたのです。
その3:広池浩司(元広島)
広島カープにはドミニカ共和国の有望選手を育成する機関である、「カープアカデミー」」があります。日本人選手が所属することはまずありませんでしたが、例外的にこちらでの留学経験があるのが広池浩司です。
もともと立教大学で4番を打つ実力の持ち主でしたが、大学時代にプロから声は掛からず、卒業後は全日空へ就職。羽田空港でカウンター業務などを行っていましたが、大学時代の同級生たちがプロ野球の世界で活躍する姿を見て触発され、入社2年目の1997年に全日空を退職して広島カープの入団テストを受験しました。見事合格しましたがドラフトでは指名されず、自費でカープアカデミーに留学。翌年のドラフト会議で広島に8位で指名され入団しました。
その後、広池は左の中継ぎ投手として11年間在籍して248試合に登板。息の長い活躍を果たしました。
その4:大嶋匠(元日本ハム)
野球と似たスポーツとして挙げられることが多いソフトボール。そのソフトボールの経験がほとんどだったにもかかわらず、プロ野球選手になったことで注目されたのが大嶋匠です。ソフトボール選手としての大嶋は高校総体、国体で優勝したほか、早稲田大学時代にはソフトボールU-19日本代表で4番打者を務めるほどの実力を誇りました。
大嶋の運命が変わったのはドラフト直前に行われた日本ハムの入団テスト。記念受験のつもりで受けたという大嶋はそこでプロのスカウトたちが目を見張る動きを披露し、それが評価されてドラフト会議で7位指名を受けるというサプライズ入団となりました。
しかしプロ入り後、やはりソフトボールと野球の違いに悩む日々が続き、プロ入り7年で現役を引退。一軍出場はわずか15試合にとどまりました。
その5:増田大輝(巨人)
ここまで紹介したのはいずれも引退した選手たちですが、現役屈指の変わり種と言えば、増田大輝でしょう。高校時代は地元徳島県の小松島高校に在籍し主将を務め、さらに四国の高校選抜としてハワイに遠征するなど四国では屈指の実力派として知られていました。
高校卒業後は近畿大学へ進学し、4年後のプロ入りを目指しましたが、2年目に大学を中退。プロの道をあきらめ、地元の徳島県に戻るととび職の仕事をし、休みの日には草野球をする生活をしていました。
ここで増田に手を差し伸べたのは高校時代のコーチ。地元にある独立リーグ・四国アイランドリーグpulsのトライアウトの受験を薦められた増田はこの試験を受けて合格し、徳島インディゴソックスに入団します。すぐにレギュラーに定着し、NPBのスカウトからも一目を置かれる存在に。そして2015年のドラフト会議で巨人から育成1位指名を受けて入団することとなり、一度はあきらめたプロ野球の世界へ進むことになりました。
プロ入り4年目の2019年には念願の一軍昇格。持ち前の俊足を武器に75試合に出場し、チームトップとなる15盗塁を決めるなど活躍しました。
異色の経歴を誇る選手はほかにも…!?
いかがでしたか? 今回紹介した選手のほかにもかつて甲子園で活躍するも、故障で大学球界から去っていた岸潤一郎が2019年のドラフト会議で西武に指名されるなど、異色の経歴を誇る選手は数多くいます。
こうした選手に注目すると、プロ野球がより一層楽しく見られますよ!