クルマ好き憧れの「跳ね馬」のモチーフは何だ?

 今年のF1グランプリでは第3戦が終わった時点でフェラーリがコンストラクターズランキングで段トツ、ドライバーズランキングでもシャルル・ルクレールがトップ、カルロス・サインツが3位。まだ序盤戦もいいところだからシーズン全体を占うことはできないけど、幸先のいいスタートであることは間違いない。今シーズンは画面の向こうで、黄色地に黒の馬が跳ねている赤いフラッグが元気よくはためく光景をたくさん見られそうだ。

と、感じていたところで、思い出した。その馬、つまりカヴァリーノ・ランパンテ(=プランシング・ホース=跳ね馬)にまつわる、ちょっと前に立ち聞きした若いクルマ好き同士の会話だ。
 

「フェラーリのエンブレムの馬とポルシェのエンブレムの馬って、確かもともとは一緒なんですよね?

「そうそう。どっちもシュツットガルトの市章が元ネタらしいよ」

 うーむ……。まぁそう言われてるところもあるにはあるんだけど、でも、それはちょっとどうかなぁ……、なのである。その言い伝え、間違ってるかも知れない。異説あれこれがそれなりの数、存在してるのだ。

 確かに、昔からまことしやかに語られてきたお話ではある。フェラーリの創設者だったエンツォ・フェラーリは、第1次世界大戦の頃のイタリア空軍の撃墜王・故フランチェスコ・バラッカの母親から、バラッカが機体に描いていたカヴァリーノ・ランパンテのマークを贈られて、それをエンブレムにした。

 バラッカがカヴァリーノ・ランパンテを自身のパーソナルマークとしていたのは、空中戦で撃墜したドイツ空軍のパイロットが機体につけていたシュツットガルト市の市章をモチーフにしたマークを、リスペクトも込めつつ頂戴したものだ。シュツットガルト市はポルシェの本拠地。ゆえにフェラーリの馬もポルシェの馬も、出所は同じシュツットガルトの市章である。細かなところに微々たる違いがある言い伝えもあるのだけど、おおまか、そんな感じだ。

 気になりはじめると、もういけない。真実は、ホントはどうだったのか。知りたくてたまらなくなってくる。……暇人なのか?

 ポルシェに関しては、そう時間もかからず判明した。公式サイトで自社のエンブレムがシュツットガルトの市章をモチーフにしてることを明らかにしてるからだ。一部を抜粋してみよう。
 

「(前略)ポルシェ クレスト(著者註:紋章)は、1952年にフェリー・ポルシェとアメリカのインポーターであったマックス・ホフマンの2人による会合で、356の品質を示すシールとして提案されました。その年、広報部長のヘルマン・ラッパーとデザイナーのクサヴァー・ライムシュピースが初期デザインを作成。細部にわずかな変更が施されましたが、このデザインは現在に至るまで受け継がれています。(中略)金色のプレートの中央には、シュトゥットガルト市の公式紋章の馬が市の名前とともに描かれ、その周りを赤と黒の威厳あるカラーと鹿の角の模様が囲んでいます。これは、ヴュルテンベルク・ホーエンツォレルン州の伝統的な紋章に由来。(後略)」

 

カヴァリーノ・ランパンテは騎兵連隊の馬だった

 対するフェラーリはどうか。実は長い間、フェラーリからこの件について公式的なアナウンスはされてこなかった。これまで買って読んできた書籍や集めてきた資料にも信憑性の高そうな記述が見られなかったことは、あらためて本や資料の山を崩して開いて……を繰り返したことで確認した。もちろん公式サイトでも、この件については触れられてない。が、『THE OFFICIAL Ferrari MAGAZINE』の2019年4月の記事の中に、こんな記述がある。ざっと訳したモノを抜粋しよう。

「(前略)1923年6月17日、プランシング・ホースとエンツォ・フェラーリの運命は、ある特別な出会いによって、永遠に交錯することになる。“1923年、ラヴェンナのサビオ・サーキットで初めて優勝したとき、私は空飛ぶヒーローの両親であるエンリコ・バラッカ伯爵とパオリナ伯爵夫人に会った”と、エンツォ・フェラーリはその出会いについて書いている。ある日、伯爵夫人が私に言った。“フェラーリ、あなたのクルマに息子の跳ね馬を乗せてみたら? きっといいことがあるわよ”と。“馬は昔も今も黒ですが、私はモデナ市の色であるカナリアイエローの背景を加えました”。(中略)1947年に自動車メーカーとして創業したとき、フェラーリはそれをブランドのエンブレムをすることにしました。今日、このエンブレムは世界で最も力強く有名なものとなりました。(後略)」
 

 フェラーリのオフィシャルWEBマガジンなので、これは公式見解と判断してもいいだろう。が、ぶっちゃけ、エンツォ・フェラーリは驚くほど自分と自分の会社の見せ方をプロデュースするのが巧みな人物で、彼の自著とされる書籍に記されてる中には、後年になって演出であったことが判ったお話がいくつだってある。

 実際にフェラーリのお膝元であるモデナやマラネッロまでエンツォの人となりについて取材に行ったことがあるのだが、「エンツォは事故で亡くなった自分のチームのドライバーたちに、この教会を通じてずっと匿名でお金を送ってた。本当は優しい人だったんだよ。でも彼は世界中の人たちに冷徹なチームオーナーであり経営者であると思わせたかったし、思わせる必要もあったんだ」と、当の神父さんから聞かされたこともある。エンツォが自分自身で語ったり書いたりしてきた逸話には、100%の確証が持てないものが結構あるのだ。

 ところが、フランチェスコ・バラッカの母親から授かったということに関しては、信じるに値すると断言していいかも知れない。存在を知らなかったのでここに行き当たるまでには途方もない時間がかかっちゃったのだけど、イタリアはラヴェンナ県ルーゴにある“フランチェスコ・バラッカ博物館”の公式サイトにも同様の逸話が記されていることが判ったのだ。

 となると、故フランチェスコ・バラッカがなぜカヴァリーノ・ランパンテを機体のパーソナルマークにしたのか、という疑問だけが残る。これについてもフランチェスコ・バラッカ博物館が明らかにしてくれていた。

 後にイタリアの撃墜王として国民的英雄になるフランチェスコ・バラッカは、1888年に伯爵家の子息として生まれ、1918年、イタリアの公式見解によればオーストリア陸軍の対空砲火を浴びて墜落、空軍のエース中のエースとして戦死する。が、彼は最初から航空隊のメンバーだったわけでじゃない。士官学校を卒業し、最初は騎兵隊──馬を駆る部隊に配属されたのだ。イタリア陸軍第2騎兵連隊。1692年にサヴォイア公によって創設されたという長い歴史を持つ、イタリア軍でもっとも権威のある部隊のひとつだった通称“ピエモンテ騎兵隊”だ。その部隊の紋章が、赤地に左を向いた銀の暴れ馬、だった。そして騎兵隊の将校までつとめた後、空を飛ぶ資格を得て訓練を重ね、1913年、イタリア空軍の飛行隊へ。そこからは戦闘機乗りとしてスコアを伸ばし、第1次世界大戦のイタリア軍トップの戦績をマーク、新たに編成された第91飛行隊の指揮官をつとめるなど、大きな活躍を納めていくことになる。
 

 フランチェスコ・バラッカ博物館の公式サイトには、こんなふうに記述されている。
「(前略)第1次世界大戦に参加したイタリアの飛行士たちの間で生まれた機体に識別マークを付ける習慣に従って、フランチェスコは“ピエモンテ騎兵隊”の紋章を、自分のパーソナルマークとして採用することを選びました。フランチェスコ自身、1918年4月27日付けの母親への手紙の中で、パーソナルマークと自分が隊長を務めていた第91飛行隊の紋章を選んだ理由を述べています(註:フランチェスコのパーソナルマークと第91飛行隊の紋章は同じピエモンテ騎兵隊のものがモチーフとなっている)。(後略)」

 ほぼハッキリした、といっていいだろう。ポルシェの馬はシュツットガルト市の市章の馬。フェラーリの馬は、イタリアの英雄フランチェスコ・バラッカを経由して辿り着く歴史的なピエモンテ騎兵隊の馬。もちろんフェラーリのカヴァリーノ・ランパンテとフランチェスコ・バラッカやピエモンテ騎兵隊の馬は、ディテールが異なっていたりはする。けれどひとつの物語として、ちゃんとつながっているのだ。これだから調べ物はおもしろくてヤメられない。

 この原稿1本を書き上げるためにいったい何日何時間、ついやしたんだ? っていうお話である。

Text:嶋田智之

提供:WEB CARTOP 

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