だが、本当はその人には会社や学校以外での生活があるはずで、会社からの評価が無くなっても他のところで評価されれば、それでいいんじゃないのと思うが、会社の評価が無くなるだけで価値がゼロになるということは、他の部分が全くなかったということになるのだろうか。それはちょっと哀しいぞという気がする。

 

ところで、この本と並行して『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理著、講談社現代新書)を読んでいたのだが、そこにほぼ同じような趣旨の記述があって、うわああと思った。描かれていたのは岡崎京子の『ヘルタースケルター』の“りりこ”。彼女にとって「自分の価値付けは他人の評価である」と赤坂さんは断じる。

 

だが、「他人の評価を得るためには過剰適応してもいい」とまで自分を追い込んでも、最後にはそれが飽きられ、評価されなくなる。相手に合わせて自分を演じてきたのにと恨み、怒ったとしても思いこんだのは自分であり、それを指示した相手などどこにもいない。怒りも恨みもぶつける相手はいない。そこで生まれた自己嫌悪は自分に向けられるか、他人に向けられるか。

 

「『誰でもよかった』という傷害事件がたまに起こると、人は不可解さに恐怖する。しかしそれはこの力の反転形でしかない。『誰でもよかった』という傷害犯の供述が、往々にして『自殺しようとしたが死ねず』とセットであるのは、身勝手さではなく、それがコインの裏表であるからこそだろうと思う」

 

う~ん、他人は他人、自分は自分だな。

 

『老人たちの裏社会』(新郷由起著、宝島社)

 

『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理著、講談社)