◼︎それは「政治によるバースコントロール」?

保育需要が年々高まるご時世、待機児童解消のプレッシャーは、特に都市部の自治体ならどこもヒリヒリと感じているだろう。むしろ人口流出と自然減(高齢者の死亡数)による人口減に悩む地方の方がこういった問題はなく、必死で出生率をあげようとあの手この手を打っている。出生率増は自然増につながり政治的にプラス評価なので、保育所新設が容易でない市区町村などは「2歳以下の待機児童は減らしたい」、でも「出生率は上げたい」の間でせめぎ合っているが、所沢市の目論見は「まず目先の2歳以下の待機児童を減らして、子育てしやすいイメージの市区町村の仲間入りをし、子育て層を呼んで出生率を上げたらオールオッケーじゃね?」だったのだろう、という気がする。

 

結局、所沢市のような「保育問題解決にあたり、数だけ合わせようとするアプローチ」が招くのは無用な保護者間のイス取りゲームだ、とはあちこちで指摘されてきたことだ。子どもを確実に保育園に入れるのにより有利な条件を手に入れるため、極端な越境申請をしたり、年収を過少申告したり、親が書類離婚してみたり、正当でないとわかっていながら涙ぐましい工作をする。施政者が本質を無視して取るアプローチは、やはり市民の側にも本質を欠いた混乱をもたらすのだ。

 

猪熊氏が指摘する、「晩産高齢化を考えると産めるタイミングで産んで育ててしまいたい」と考える潮流は、まさに都市部の共働き層における主流だ。そこが見えないまま、自治体が0〜2歳児の育休退園などを制度化してしまうと、必然的に仕事を持つ母親は「子どもが生まれる間隔」を3年以上へ調整することとなる。それは、政治によるバースコントロールだ。それによって、生まれるはずだった子どもが「親が高齢出産であるがゆえに」タイミングを失うこともあるかもしれない。政治が如実に「個人の生きかた」「家庭のありかた」に関わってくるのを実感する。

 

待機児童数が「良く」解消されるとはどういう状態を表すのか、出生率が「良く」上がる社会とはどういう姿をしているか、施政者には数字の操作以上のビジョンが必要なのではないか。下手な手を打ったからと、場当たり的に政策をいじっている場合ではないんじゃないかなぁ。