「欧米では学校での暴力は日本よりも厳しく対応されることが多く、子ども同士のいじめの問題、しかもどうやら暴力を伴っているケースなら、本来学校が介入すべきなのに介入していない、事態も把握していないということで、管理責任を問うことができます。また、傷害や金銭的な損失があった場合はいじめ加害者やその親を訴えるというような話も珍しくはありません。」

 

「子ども同士の話に収めるのではなく、まずは学校に訴え、そして学校関係者同席の上で相手の親と子と話し合いを持つのが妥当な線ですが、そこで親が暴力を奮ってしまっては、むしろ自分が不利となり……」

 

日本は遅れてますよ、と言わんばかりに書いてみたけど、ちょっと待ってよ、また子どもがすっかり置き去りだ。法的手段がどうとか、それこそ子ども本人の痛みはどこにいっちゃったのか。これまたまったく響かない。退屈なこと言ってんじゃないよ、と自分に突っ込む。

 

子どもを痛めつけられた親の中にあるものは湧き上がる怒りだよ、困惑と怒りと悲しみと痛みと、でも一番大きいのは、子どもの痛みを自分が肩代わりしてやりたかった、自分の子どもを守ってあげられなかった自責の念だ。

 

このお母さんは、いろいろ考えたんだろうな。相手の母親を連れて学校に乗り込んだというのも、よく加害者の親を説得したものだと思う。普通は応じてなんかくれないよ。で、いじめ加害者である子どもを殴って報復するのではなくて、その母親を殴った。大人同士で。大人が子どもを殴ったら「弱いものいじめ」だもの、このお母さんはそうはしなかった。殴ったという時点で、この話は全般褒められることじゃない。でも、そこだけはどうにかフェアにした。

 

冒頭で若いママが口にした「子どもに何かあったら刺し違える覚悟」という言葉の凄みも、印象的だった。怖い? 思い詰めてる? いいや、あのさ、親ってみんな、ひとたび親になったときから多かれ少なかれそういう覚悟が醸成されるんだよね。それが「守るものがある」ってことなんだと思う。

 

結果は、全然褒められることじゃない。でも、件のお母さんは、事前に守ってあげられなかったぶん全力で、子どもの目の前で「私はあなたを守る」ってのを身体で表現したんだよね。あなたを守って責められるならそれでいい。責められるのは、私でいい。大人だから。

 

安易に真似しちゃいけない。でも、その気持ちは状況を想像すればするほど同じ母親として痛いほど分かって、最後はこのお母さんと娘のことを思ってなんだか泣けてしまった。良識ある大人なら、もっと合理的に理性的に判断する、のかもしれない。でも、それを通用させたくても通用しない、自分でもどうしていいか分からないような場面がある、強くて弱い生き物になるっていうのが親になるってことかなぁ、とぼんやり考えた。