考えさせる機会を奪っていくと、表面だけでしか物事を捉えられなくなる。よく警察24時などのTVドキュメントで出てくる女子高生の売春など典型的な例だ。彼女たちが売春する目的は「お金がほしい」この一点だ。売春相手に関しては、「お金をくれる人」とだけしか思っていない。初めて会う人がほとんどなのに警戒心がない。

 

そこには、「行為をすればお金をくれるのが当たり前」という表面的思考しかない。約束が反故され、暴力や暴行、恐喝、詐欺などにあう可能性があることを理解していない。挙句の果てに警察に保護されれば「親には連絡しないで!」と大半の少女が口にする。この理由も「怒られるから」がほとんど。なんで怒られるのか(叱られるのか)?が全然わかっていない。そこにある中身を理解していない。その思考じゃ怒られなきゃ売春してもいいってことになる。

 

先ほども述べたが、大人が危険と思われる事を子供の為に排除したくなるのは当然だろう。でも、私たち大人は子供たちをいつまでも安全な方向に導くことはできない。親は老いていき、子供たちもいずれは大人になり、次の世代を育てていくのである。彼らには彼らの人生があり、己の力で社会の中で生きていかねばならないのだ。

 

そういった意味では、教育における過度な排除や配慮は社会適応において、警戒感や危機感を失わせる可能性がある。もっと疑問を抱かせること。もっと気付かせること。もっと考えさせること。それらを創出してこそ、教育なのではないかと改めて私は思う。