最近あちこちで、内輪のコミュニケーション手法をパブリックな場に持ち出す人を見かける。どうもうまくない。学生や子どもならまだわかるが、40代以上の立派なオトナがだ。だがリアルにせよ、ソーシャルにせよ、全員が知り合いではない場で場の一部にしか通じないコミュニケーション手法を持ちだして、内輪ウケを狙おうとしたり、自分の居場所を確保・アピールしようとしたとき、蚊帳の外に置かれた人を傷つけたりしないかとか、自分の振る舞いが外からどう見られるかとか考えないんだろうか。

 

――。たぶん考えない。僕もそうだ。いまはなるべくしないように心がけているけど、それでもやってしまっていると思う。特に20代など、自分に決定権がない(と思い込んでいる)ときには、内輪受けで安心したがったり、その場のエライ人――決定権者に喜ばれるような行動を取りがちになる。でも「決定権者」とは誰なのか。

 

実は人ではない気がする。「場」なんじゃないか。

 

どうもカン違いしている人が多いように見えるが、最後に「よし、こうしよう」と言葉を発するのが、決定権者ではない。敢えて「誰」とするならば、そこに至る過程を考え抜き、納得できるよう伝達できる能力がある人が「決定権者」となりやすい。だが、そもそも「決定権」という概念自体、便宜上必要だから使われているにすぎない。

 

そもそも世の中に本当の意味での「決定権」などない気がする。手続きや組織運営上必要だとしても、本来そこにあるのは「決定責任」で、決定するという行為自体、権利でもなければ偉いわけでもない。決定したことにケツを持つことこそが重要なんじゃないか。だいたい「決定権者」という言葉が頻繁に使われるコミュニティは、寿命が短い。

 

資質としては、「最適なプランを考えぬく能力があり」、「人の話に耳を傾け」、「いい意見が出たら、自分の意見を瞬速で取り下げ」、「いい意見に乗っかり」、「場をコントロールできる」人が「決定権者」になりやすい。結果としてエラくなるのは、「決めたことに責任を持つ」という、本来当たり前のことをやり続ける人が多くなる。

 

いかん。最初に書こうとしたこととかなりズレた。書きたかったのは、コミュニケーションのズレの話だった。

 

小さなコミュニティにありがちなのは、「決定権者」と思しき人に露骨にすりよってコミットしようとする人や、パワーゲームでそこを支配したがる――「決定権者」になりたい人だ。そういう人は、視野が狭かったり、写真用語で言う被写体深度が浅いことが多い。

 

昔、何かの音楽誌でどこかの大物アーティストが「ステージに立ったら、一番後ろの客の目を見るんだ。次に一番近くを見る。逆の順番のこともあるけど、一番後ろの客を決してないがしろにしちゃいけない」とステージに立つ時の心構えを説いていた。バンド小僧だった僕は「そんなん見えるかいな」と思ったが、試してみると不思議と見えた(ような気がした)。

 

当時、上手いコミュニケーションがはかれたかはわからない。ただ最前列の客ばかりに目をやっていたときとは、違うコミュニケーションができたとは思う。

 

以来、できているかどうかは別として、飲み会でも何でも「最後列の客」をなるべく気にかけるようにしている。最前列にばかり懸命にコミュニケーションをする人や、内輪のコミュニケーションにばかり腐心する人が、「決定権」を持ったのを見たことがない。

 

実は一番シビアな客は、最後列にいる。

 

ところで、以下のニュース、リライトがかかっているっぽく、「決定権」と橋下代表が言ったかはわからない。このレベルで言葉尻を捕まえられるようなエラーはやらかしそうにない気もする一方、雰囲気としてはそう言いそうな気もしないでもない。本来、目的さえ正しければ、言葉尻や手段はどうでもいいとは思うが、一方でうまいコミュニケーションを成立させることなく、目的を果たすのもまた難しい。

 

橋下代表「決定権は自分に」 日本維新、初の全体会議 
「日本維新の会」初の全体会議に臨む、橋下徹代表(中央)ら(6日、大阪市住之江区)=共同
 橋下徹大阪市長が代表の新党、日本維新の会は6日、所属する国会議員と地方議員による初めての全体会議を大阪市内で開いた。橋下氏は終了後の記者会見で「最後にバランスを取って決定する役割は自分にある」と述べた。今年度予算の財源を裏付ける赤字国債発行法案について「政局や解散に追い込むのに使うのはやめる」との考えを示した。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDE06001_W2A001C1PE8000/