はじめに言っときますが、ボクはまだ現在劇場公開中の「エヴァQ」観てません。

というか、テレビ版を去年ぐらいにやっとネットの動画配信で全編観ただけです。

ああ、あと新劇場版の「序」と「破」はレンタルDVDとテレビで観ましたね。

だから今回は「エヴァQ」のネタバレは一切ありません。だってテレビ解禁された冒頭数分以外観てないんだもん。

 

いや~、いつも映画や小説の感想書くときはあまりにあらすじやら結末やらバラしすぎて読んでる人怒ってないかな~(汗)って心配しちゃうので、今回は皮肉なことに気がラクだわ・・・・・・・

 

ところで、そのネタバレに関して騒動が起こってるみたいです。

どっかの大学教授が講義中に「Q」のネタバレを始めて阿鼻叫喚の地獄絵図(←大げさすぎ)になったという・・・

どういう分野のどういう教授さんで、どういう流れでそういうことになったのか知らないので何とも言えないのですが。

とりあえずそんなアニメの話とかしてお金がもらえるお仕事うらやましすぎ・・・・・って思ったのボクだけでしょうか。

 

一方で「Q」に関してはすでに賛否両論湧き起こってるみたいです。

さっそく「Q」の批判専用ブログ起ち上げた人までいるようです。

 

で、その大学教授さんの話に戻るんですが、もしその教授さんが哲学とか心理学とか社会学とかの先生で、エヴァに関してなにやら哲学的っぽい解釈で一席ぶってたとしたら、イタい人とかいう以前に、見事にワナ(罠)にかかってるんじゃないかって思ったんですね。

いや、よく言われてる、「エヴァはもっともらしく、わざと難解に、思わせぶりに作ることで解釈に関して(小難しい哲学的なのも含めて)より議論を巻き起こそうとしている。つまりそうやって観る人をワナにかけている」という批判とはまた別の意味です。

 

ボクが言ってるのは、「物語が物語であるが故にかかってしまうワナ」のことです。

ここで一冊本を紹介します。

ダンカン・ワッツ著「偶然の科学」です。

この本でダンカン・ワッツさんはあのハリポタこと「ハリー・ポッター・シリーズ」を引き合いに出して眼からウロコが落ちるようなこと言ってくれてます。

 

たとえば、「ハリポタの主人公は多くの少年少女が潜在的に抱えている渇望感を満たしてくれる存在でウンヌン・・・・・・そんなわけでハリポタは世界的大ヒットとなったのである」とか、「当時世界を覆いつつあった不況下において、潜在的に人々が抱えていた不安感に対しハリポタはそれを暗に表現しつつも希望へとつなげるストーリーを提示しウンヌン・・・・・・そんなわけでハリポタは世界的大ヒットとなったのである」と、ハリポタ大ヒットの理由に関してもうそれこそなんでも言えちゃうわけです。

 

でも何を言ったところでそれは「後付け」の理由に過ぎなくて、結局「ハリー・ポッターが大ヒットしたのは、それがハリー・ポッターであるからである」ということを言っているに過ぎないというのです。

 

う~ん、言われてみればたしかに・・・・・・

エヴァに関する論評にも同じようなこと言えると思えませんか?

アニメ作品に関してなにか哲学的に語りたければ、それこそポケモンだろうがワンピースだろうが甲殻機動隊だろうが哲学的に語れちゃうわけです。

一方で同じ作品に対し「これ面白いよ」とか、「これつまらないよ」とか、直観的に語るのもアリです。

 

ようするに、ある作品がヒットした理由に関し、どんなスタイルで、どんな視点からの論評をしたってそれっぽく思わせることは可能なのです。

でも論評してる当人は往々にして自分の意見こそが的を得ていると思っちゃうんですよね。

で、夢中になって哲学的に語っちゃったり、マーケティング論みたいなのを披露したりするわけです。

それが科学論文とかじゃない「物語」の面白さでもあり、「物語」が持っている一種のワナです。

ボクもそういったワナにはかかるもんかと思いながらいつもまんまと引っ掛かってるひとりでございます。

だからボクの意見もそんなもんだと思ってどうか気楽に読んで頂けると幸いです。

 

ボクはこのブログで映画やアニメ、小説の感想を書くうちに「物語の構造」というものにとても興味を持つようになりました。

それって言いかえれば、「作り手さんが物語を創っていくとき、どのようにしてそれを組み立てていくのだろう?」ということへの興味でもあります。

 

たとえばあなたが、「なにかひとつ、アニメの原作をつくってください」と頼まれたとします。

なんにも無いところから、どうやって物語をひねり出し、それを組み立てていきますか?

ボクには大きく分けて、ふたつのやりかたというか、道すじがあるように思うんですね。

 

まずひとつは、俯瞰的(ふかんてき)な方法。

「こういう性格の主人公がこんな事件にあって、こんな行動をして、恋人になる人と巡り会って,こんなことがあって最後には結ばれる。これでラブスートーリーとしても成立するし、途中の事件の内容でメッセージも盛り込める」といった具合です。
そういう「鳥の視点(神の視点って言ってもいいかも)」を持っておいて、それに従ってひとつひとつのシーンを決めていくわけです。

 

このやりかただと途中でストーリーが破綻する可能性をかなり下げることができます。

一方で、ひとつひとつのシーンや登場人物を物語全体のなかでどう機能させるかということに気を取られてしまう、という弊害があって、シーンや登場人物そのものの魅力を機能性と引き換えに削いでしまう、というリスクが生じてきます。

 

もうひとつは、「とにかく自分が観たいシーンや、面白いと思える状況や登場人物を挙げていって、それをつなげていく」という方法です。

「物語のパーツ」をはじめに決めておいて、あくまでその魅力を損なわないようにしながらそれをつなげたり組み立てていったりするわけです。

こうすると、ひとつの物語のなかで作り手も、ひいては受け手も好きなシーンや好きなタイプの登場人物が次々と登場してくるので、その瞬間、瞬間でより感覚的に訴える力の強い作品がつくれます。

一方で、このやりかたで創っていくと、最後からストーリー全体を振り返ってみたら破綻しちゃってました、ということがよく起こります。

各パーツの完成度や面白さを優先させるあまり、全体としての整合性がとれなくなって来ちゃうんですね。

 

ボクにとってのエヴァって、典型的に後者のタイプなんです。

たとえば・・・・・

主人公は昔ながらの勇ましい男の子よりガンダムのアムロみたいな受動的なタイプがいいな。あのキャラクターをさらに誇張して描いてみよう。

当然ロボットには「乗る」んじゃなくて「乗らされる」ところから始まらないとね。

出てくる女の子はアンドロイド(人造人間)の美少女なんてどうだろう。それが主人公との関わり合いのなかで徐々に人間性を獲得していく、なんていいんじゃないか?

それ以外にもツンツンした美少女やお姉さんタイプの美女、研究者タイプのクール美女なんかも出したいな。

ロボットは一度生物っぽい、有機的なものが観たかったんだよな。それが得体の知れない化け物みたいな敵と戦ったら、昔懐かしいウルトラマン風特撮っぽい格闘戦から前衛的な演出まで色々できるんじゃないかな?

主人公は「厳格な父親」的管理下でもがいてるのがいい。ええい、いっそのこと父親が司令官という設定にしよう。

「学研ムー」で育った世代が泣いて喜びそうな陰謀論とか秘密結社的なものも出したい。

ちょっとエロい演出も欲しい。

それより何より、今まで無かったような、前衛映画みたいな芸術的なシーンをこれでもかっていうほど描き出していきたいんだ・・・・・

 

・・・・・とまあ、こんな風に自分がやりたい、もしくは他人様にとっても魅力的であろうパーツ群をどんどんひとつの物語というナベのなかに入れていくわけです。

ボクにとってのエヴァってそういう風なものなんです。

それを「あんなのただ観る人たちが喜びそうなパーツを適当につなぎ合わせただけの代物じゃないか。ひたすら客にエサをバラまいているのと同じだよ」と批判するのもわかります。

 

ただボクの印象だと、もちろんマーケティング的に考え抜かれたものもあるんでしょうが、エヴァにはもっと無邪気というか、作り手さんたちが、「いちどこういうの描いてみたかったんだよなあ」とか、「やっぱこういうのって理屈抜きで面白いよね」みたいな、作り手の趣向というか、ほとんど性癖みたいなものに従ってる部分をより多く感じるのです。

(作り手さんたちの個人名を出すのは、このブログではやめときますね)

 

それで、結局ボクはエヴァが好きなんですよね。

だってパーツのひとつひとつは確かにすごく魅力的なんですもん。

ただ物語づくりにおける「パーツ至上主義」の当然と言えば当然といえる結果として、結末はどうみても破綻的に終わらざるを得なくなります。

TV版エヴァのラスト2話を観て「お口ポカーン」になった人は多かったんじゃないでしょうか。

 

ボクは医者という仕事柄、精神医学とかカウンセリングとかに触れる機会も多かったので、あの精神分析的とすら呼べない、うさん臭い自己啓発セミナーみたいなラストに、「これが人類補完計画??伏線の回収ほっぽり出してこんなショボい終わりかたするのか・・・・・」と、唖然としたのを思い出します。

後から知った話だと、予算的に絶体絶命で、苦肉の策の終わらせかたでもあったようですが・・・

 

ただ今から思えば、秘密結社みたいなゼーレがどうこうとか、伏線といってもそれもあくまで作り手さんが面白いと思ったパーツであったから登場させただけで、もとから伏線の回収なんかやる気も無かったんじゃないかとすら思えます。

それで「ふざけんな!!」となって、この作品は受け手に拒否されたのでしょうか?

結果はほとんど逆だったと思います。

すごく売れちゃったんですね。

 

綾波レイさんとかアスカさんを始めとして、特定のキャラという「パーツ」に夢中になるオタクさんを量産させましたし、死海文書だの使徒だの本物のキリスト教研究者が聞いたら怒り出しそうな、謎めいた、思わせぶりな「パーツ」たちをなんとかつなぎ合わせようとする研究本まで出版されました。

つくった本人さんたちすら、それをつなげ合わせようとする気なんぞ始めからまったく無かったのかもしれないのに・・・・・

 

これは画期的なことでした。

物語の各「パーツ」を魅力的にすることにひたすら力を注いでいれば、全体として破綻していてもその物語は売れる、大ヒットすることを証明したのですから。

かくして、その後けっこう多くの「エヴァ・フォロワー」みたいな作品がつくられることとなります。

なかには「ちょっとエヴァ入ってる」のから「かなりエヴァ入ってる」ものまでありました。

それでもやはり元祖は強しで現在のリメイクに至ってるんじゃないかと思ってます。

 

ボクが思うに、物語づくり、とくに長い物語づくりにおいて、「全体としてのストーリーの整合性を最重要視し、キャラクターや舞台・背景設定など各パーツをあくまで機能的に扱う」というのを最右翼とすれば、「各パーツの魅力性が最重要で、そのためにストーリーが全体として破綻してたって構わない」というのが最左翼なんですね。

もちろん完全に右翼側、左翼側な作品っていうのは滅多に無くて、ほぼ全ての作品はその間のどこかに位置しています。

「ガンダム」とか「甲殻機動隊」はやや「全体重視」のなかでうまくバランスとってると思うし、「エヴァ」は相当極端な「パーツ重視」派じゃないでしょうか。

 

ちなみに現在進行中の新劇場版なんですが、「序」「破」と、ややストーリーの流れや整合性重視、つまり「全体」派へ歩み寄った作風で、そのブレンド具合がやっといい感じのところに来た!!と思ったものですが、そこからまた「パーツ至上主義」へ戻ってしまう可能性も大なんじゃないかと思ってます。

なぜならパーツ至上主義によるストーリーの破綻って、物語の最後近くになればなるほど顕著になるからです。

それと物語の作り手ってみんな、自分のお得意パターンというものを持っていて、それでヒットすればするほど、そのお得意パターンから抜け出せなくなってくるからです。

 

つれつれと自分視点でエヴァを語ってしまいましたが、この辺にしときます。

長い拙文を読んでくれたみなさま、本当にありがとうございました。