神経に作用する猛毒のVXとは

ドクロ

VXはサリンと同じグループに属する神経に作用する化学兵器

2017年2月、マレーシアにおいて金正男氏と思われる人物が暗殺される事件が起こりました。暗殺に使用されたのは、猛毒で化学兵器としても使用されるVXと断定されたようです。VXは、過去にはオウム真理教が製造し、実際に使用されて死者も出ています。本記事ではVXがいかにして人体に作用するのかをを中心にわかりやすく解説します。

VXは神経に作用する猛毒であり、専門的には非可逆的(ひかぎゃくてき)コリンエステラーゼ阻害作用を起こす神経剤に分類されます。同じ毒性を持つものに、やはりオウム真理教が使用したサリンが挙げられます。

国立医薬品食品衛生研究所のデータによると、VXは常温では無色・無臭の液体です。揮発性は低い一方で皮膚などを通じて速やかに体内に吸収されて毒性を現します。

正直、一般の方には非可逆的コリンエステラーゼ阻害作用がどのようなものか全く見当がつかないかと思います。そこでここからは一つ一つ、専門用語を「翻訳」しながら解説を進めていきます。まず、キーワードとなるのがアセチルコリンです。
 

アセチルコリンは神経伝達物質の一つ

神経

アセチルコリンは神経と神経の間で命令を伝達している

皆さんは神経伝達物質という言葉を聞いたことがありますか? 私たちの身体は脳からの命令に基づいて活動していますが、その命令を伝えてくれる物質が神経伝達物質です。アセチルコリンはこの神経伝達物質の一種です。

私たちの身体中に張り巡らされている神経と神経の間にはシナプス間隙(かんげき)と呼ばれる小さな空間があります。その空間をキャッチボールのボールのようにアセチルコリンが行ったり来たりすることで命令が伝わって行くのです。アセチルコリンのイメージがつかめたら、次に理解していただきたいキーワードはコリンエステラーゼです。
 

アセチルコリンを分解するコリンエステラーゼ

コリンエステラーゼは酵素(こうそ)と呼ばれる物質です。酵素は身体のなかでさまざまな仕事をしている「働き者」であり、コリンエステラーゼはシナプス間隙においてアセチルコリンの分解を行っています。

上記の例えを使うと、命令を携(たずさ)えたキャッチボールのボールをコリンエステラーゼは食べてしまうようなイメージです。コリンエステラーゼはシナプス間隙においてアセチルコリンを分解することで、それらが過剰になるのを防いでいます。

ここまでアセチルコリンとそれを分解するコリンエステラーゼについて解説してきました。

では、いよいよ次はコリンエステラーゼ阻害作用の登場です。
 

VXはコリンエステラーゼの仕事を邪魔する作用をもつ

コリンエステラーゼはシナプス間隙でアセチルコリンを分解する酵素でした。そしてVXはコリンエステラーゼに結合することで、そのはたらきを強力に邪魔する物質なのです。この作用のことをコリンエステラーゼ阻害作用と呼びます。

さらに最初に登場した「非可逆的」とは、かみ砕いて言うと「放っておいたら元に戻らない」という意味です。つまり、VXはそのままだとずっとコリンエステラーゼを邪魔してしまうことになります。この作用の結果、シナプス間隙にはアセチルコリンが過剰になってしまうのです。
 

アセチルコリンだらけで身体は大混乱

アセチルコリンの過剰

アセチルコリンが過剰になると正しい命令が伝わらなくなってしまう

シナプス間隙においてアセチルコリンが適量あれば、人体は脳が発した命令に対してスムーズに機能します。しかし、VXによってアセチルコリンが大量に存在してしまうと本来の脳が発した命令はうまく伝わらず、肉体的にも精神的にも大混乱に陥ってしまいます。

大混乱の結果、身体には痙攣(けいれん)、麻痺(まひ)、呼吸困難、錯乱といった死に至る症状が現れてしまうのです。
 

VXやサリンの解毒剤は存在するのか?その効果は?

強力なコリンエステラーゼ阻害作用を持つVXですが、解毒剤が存在します。それはプラリドキシムヨウ化物という薬です。プラリドキシムヨウ化物はその略称からPAM(パム)とも呼ばれます。

パムはコリンエステラーゼにくっ付いて、そのはたらきを邪魔しているVXを引きはがしてくれます。結果としてコリンエステラーゼは再び過剰なアセチルコリンを分解してくれます。

パムはVXだけではなくサリンにも有効で、地下鉄サリン事件の際にも使用されました。しかしその一方で、VXやサリンによる致死的な症状が現れ出してからでは、PAMを投与しても救命は難しいといわれています。

非常に恐ろしいVXですが、似たはたらきを持つ物質は有益な薬にもなります。以下では猛毒であるVXから派生して、コリンエステラーゼ阻害作用を持つ薬の話も付け加えておきましょう。
 

アセチルコリン不足時には有益な薬に…薬局での取り扱いは?

VXやサリンは非可逆的に、つまり強力にコリンエステラーゼのはたらきを邪魔することが問題でした。しかし、可逆的に(いわば穏やかに)そのはたらきを邪魔することでアセチルコリンの量を適度に増やすことが可能となります。

アセチルコリンが不足してしまうと腸の動きが鈍くなる、尿が出しにくくなる、筋肉に力が入りにくくなるといったトラブルが起こります。これらを改善する治療薬として可逆的コリンエステラーゼ阻害薬は使用されます。

一方で相対的に作用が穏やかといっても可逆的コリンエステラーゼ阻害薬は慎重に用いられる必要があります。なかには毒薬に指定されているものもあり、薬局では施錠して保管することが義務付けられています。
 

金庫

盗難などを防ぐために毒薬は施錠下での管理が義務付けられている

調剤薬局に勤務している薬剤師の知人も「毒薬に指定されている薬は細心の注意を払って調剤している。種類も少ない分、毒薬はより特別な存在でもある」とのこと。

治療薬だけではなく、害虫駆除にもコリンエステラーゼ阻害作用を持つ薬は使われています。それは有機リン剤と呼ばれるグループです。
 

殺虫作用を持つ有機リン剤

農場

非可逆的コリンエステラーゼ阻害作用を持つ物質は農薬や殺虫剤としても利用される

有機リン剤はVXやサリンと同様に非可逆的(つまり強力な)コリンエステラーゼ阻害を持っています。代表的な有機リン剤にジクロルボス、マラチオン、そして現在は使用されていないパラチオンなどが含まれます。

身近な例として天井から吊るすタイプの『バポナ殺虫プレート』(アース製薬)にはジクロルボスが含まれています。

農薬として活用されるマラチオンは2013年のアクリフーズ農薬混入事件で検出され、広く知られるようになりました。上記で登場したパムは本来、これらの混入や誤用、自殺を意図とした使用による症状の回復に用いられる薬です。

このように解説を進めてくると「有機リン剤の殺虫剤や農薬はVX並に危険なの!?」と感じられるかもしれません。しかし、それは誤解です。
 

有機リン剤は人体内で分解されやすい

有機リン剤は虫にとっては有害なものですが、人体にとって相対的に毒性は低いです。その理由として有機リン剤は人体内で分解されやすことが挙げられます。この分解能力を虫たちは持っていないのです。さらに有機リン剤は虫の体内で毒性が増す構造になっています。この2つの理由から、有機リン剤に対して過剰に恐れることはありません。

一方で、有機リン剤は人体にとって無害なわけではありません。したがって、基本中の基本ですが使用の際には適正使用することが重要です。実際、上記で登場した『バポナ殺虫プレート』は薬剤師が使用方法を説明することを義務付けられている第1類医薬品に該当しています。

VXやサリンは別として、どのような薬も使い方次第では人間にとって有益なものにも害を与えるものにもなります。繰り返しになりますが今一度、薬の適正使用を意識して頂ければ幸いです。